孫堅 呉の礎を築いた孫策・孫権の父の生涯について

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長沙太守となる

その後、けい州の長沙ちょうさにおいて、区星おうせいが反乱を起こしました。

そして一万の兵士を集めて町々を包囲し、攻撃を加えるようになります。

このころには後漢の統治がゆるみきり、各地で次々と反乱が勃発しており、王朝の崩壊が迫っていることを感じさせます。

一方で、孫堅のように軍事に秀でた人物にとっては、手柄を立てる機会が多かったのだとも言えます。

この時も反乱を鎮圧するために、孫堅は長沙太守(長官)に任命されました。

孫堅は赴任するや、自ら将士を率いて戦い、わずか一ヶ月ほどで区星の討伐に成功しています。

さらに、隣接する桂陽けいよう郡や零陵れいりょう郡でも反乱が起きていたので、孫堅は郡の境界を越えて討伐に向かいました。

そしてこちらも短期間で鎮圧に成功し、三郡は完全に平穏になっています。

孫堅は戦いを進める一方で、長沙で有能な役人を任用し、公正な行政を行うように厳命しました。

このために治安が急速に回復し、これもまた孫堅の功績となります。

朝廷は荊州における孫堅の優れた働きを認め、烏程うてい候に封じました。

こうして孫堅はついに爵位をも得ており、後漢末期の混乱の中で、着実に地位を高めていきます。

揚州にも出陣する

一方、このころには荊州のみならず、孫堅の故郷である揚州の各地もまた、賊徒たちの攻撃を受けています。

その渦中で、揚州・宜春ぎしゅん県の県令が孫堅に救援を求める使者を送ってきました。

孫堅はそれを引き受けて軍を編成し、救援におもむこうとしますが、主簿しゅぼ(事務長)が取りやめるようにと進言します。

孫堅は荊州の一郡の太守でしかなく、揚州に軍勢を率いて乗り込むほどの権限を持っていなかったからです。

これに対して孫堅は、「境界を越えて討伐を行い、他の土地の危機を救ってやり、それで罪を得たとしても、天下に対し何を恥じることがあるだろう?」と主簿に返答し、そのまま揚州に進軍しています。

すると賊徒たちは、孫堅が来ると聞いただけで逃げ散ってしまい、孫堅は労せずして宜春県を救うことができたのでした。

このように、孫堅の活動範囲は荊州から揚州にまたがり、その武名は鳴り響いていったのでした。

このことが、後に孫家が呉を建国する上で、影響を及ぼしたと思われます。

董卓が朝廷を支配する

189年になると、孫堅がその傲慢さをとがめた董卓が、政局の混乱に乗じて朝廷の実権を握りました。

そして董卓が都・洛陽で暴政を行った結果、ただでさえ傾きかけていた後漢王朝の権威は、急激に低下していきます。

孫堅はそれを聞くと、「将軍(張温)があの時、私の言葉に従っていれば、朝廷はこんな災難にあわずにすんだのだ」と言って嘆息しました。

荊州刺史の王叡を殺害し、兵力を増強させる

董卓は皇帝をすげ替えるなどしましたが、そのように横暴が目にあまるようになると、各地の州や郡で義勇兵が結成され、董卓を討とうとする動きが広がります。

孫堅もまた長沙で兵を挙げますが、最初に行ったのは、荊州の刺史(長官)である王叡おうえいを討つことでした。

そのきっかけは、王叡が武陵ぶりょう太守である曹寅そういんを討とうとしたことにあります。

武陵は荊州に属する郡ですので、王叡は自分の部下を殺害しようとしたのだということになります。

王叡はかねてより曹寅と仲が悪く、このために混乱に乗じ、気に入らない人間を消そうとしたのでした。

やがて曹寅は王叡に狙われていると知ると、孫堅に「協力して王叡を討とう」と持ちかけます。

孫堅は武官であるということを理由に、王叡から軽んじられる態度を取られていた経緯があり、このために曹寅の誘いに乗って、王叡を討つことにします。

また、正義感の強い孫堅からすると、王叡が董卓を討とうとせず、部下を討とうとするという、見当違いの行いをしていることが許せなかった、というのもあったでしょう。

曹寅は「王叡の罪状をでっち上げて上表すれば、こちらが罪に問われることはない」と孫堅を説得し、孫堅はその策に乗ります。

そして王叡の居城を襲撃し、計略によって門を開かせ、孫堅は自ら城内に入り込みました。

孫堅は王叡を追い詰めて自害させ、荊州の軍勢を取り込みますが、その結果、兵力は数万規模にふくれあがりました。

部下を殺害しようとした王叡の自業自得ではありましたが、目下の太守が目上の刺史を謀略によって殺害してしまうあたり、この時には完全に乱世に突入していたのだと言えるでしょう。

孫堅もまた混乱に乗じて勢力を伸ばそうとする、群雄のひとりになったのだと言えます。

南陽太守の張咨を殺害する

孫堅は軍勢を率いて北上し、やがて南陽なんよう郡に到達しました。

孫堅は到着する以前に、南陽太守の張咨ちょうしに対し、「義勇軍のために道路を修理し、軍需物資を用意するように」と要請しています。

南陽は豊かな土地柄でしたので、義勇軍の補給拠点にするのに最適でした。

孫堅は南陽に到着すると、張咨と酒宴を開いて交流を持ちますが、やがて孫堅の部下が、「道路が修理されておらず、物資も蓄えられていません」と報告しました。

このために張咨の主簿を呼び出して問いただしたところ、「南陽太守(張咨)は義勇軍を引き留め、賊の討伐を順延させようとしています。どうか捕縛し、軍法に照らして処分されますように」と述べたので、すぐさま孫堅は張咨を表に引き出し、処刑させます。

この措置によって南陽の人々は震え上がり、孫堅の要求はなんでも通るようになりました。

こうして荊州刺史に続き、南陽太守まで殺害しており、非常時とは言え、孫堅のやることは性急にすぎたきらいがありました。

孫堅には統治能力もあるものの、いささか武に偏り、果断すぎる性格だったと言えるでしょう。

そのあたりに、王叡の侮りを招いた原因があったのかもしれません。

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