勢力争いが始まる
こうして董卓を取り逃がし、洛陽に獲得する価値がなくなると、大陸東部の諸侯は、互いの領地を侵略しあい、勢力争いが始まるようになります。
孫堅は袁術によって豫州刺史に任命されていましたが、袁紹もまた豫州刺史を別に任命しており、両者の間で戦いとなりました。
孫堅は袁紹が任じた周喁と戦うことになりましたが、「皆で義兵を挙げたのは、漢の社稷を救うためだった。しかし逆賊が敗れそうになると、もう各自が勝手なことを始める。俺は誰と力を合わせればよいのだろう」と嘆きました。
ともあれ、孫堅は周喁と戦って連戦連勝し、豫州から追い出すことに成功しました。
こうして孫堅はさらに実力と名声を高めましたが、結局は、気が進まない群雄同士の勢力争いに、巻きこまれていくことになったのでした。
【このころの勢力図 中央の袁術の下に小さく「孫」とあるのが、孫堅の勢力】
劉表を攻撃する
この時期には、袁紹と袁術が中心となって勢力争いが展開されていました。
袁術は北方の公孫瓚と同盟を結んで袁紹を牽制し、袁紹は荊州刺史の劉表と同盟を結んで袁術を牽制します。
このため、袁術は孫堅に対し、荊州に攻めこんで劉表の本拠である襄陽を奪うようにと命じました。
これを受けて孫堅は荊州に攻めこみ、まずは前衛基地である樊城を攻撃します。
樊城は劉表の部下である黄祖が守っていましたが、孫堅はこれを軽々と撃破し、さらに南へと進軍しました。
そして漢水を渡って襄陽を包囲します。
窮地に陥った劉表は黄祖に対し、城外に出て兵士を集めてくるようにと命じました。
孫堅はその動きを読んでおり、黄祖に待ち伏せをしかけることにします。
しかしこれが、孫堅に意外な結末をもたらすことになりました。
戦死する
孫堅が兵士を集めていた黄祖に奇襲をしかけ、これを討ち破ると、黄祖は峴山という場所に逃げ込みます。
孫堅は自ら先頭に立って黄祖を追撃し、討ち取ろうとしました。
すると黄祖の兵卒たちが、木や竹の間から、弓矢を用いて孫堅を狙撃します。
その矢が次々と命中し、孫堅はあっけなく戦死してしまいました。
孫堅はこの時、まだ37才でした。
すでに触れている通り、孫堅は単騎で突出する癖があり、赤くて目立つ頭巾を身につけていました。
このため、黄祖は追撃してくる孫堅を待ち受け、「先頭を駆けてくる赤い頭巾をかぶったやつを狙え」といったように、狙撃することを命じたのかもしれません。
孫堅の勇猛さと、そしていささか軽率だった面が、彼に死をもたらしたのだと言えます。
異伝
孫堅の死については異伝もあり、それによると、劉表の部下の呂公が孫堅を倒した、ともされています。
呂公は密かに山づたいに孫堅に近づくと、孫堅が武装もせず、騎乗で呂公を捜索している姿を発見しました。
これを好機と見た呂公は上から岩を落として攻撃し、それが頭に命中して孫堅が死亡した、というのがその話です。
しかし、後に子の孫権が、執拗に黄祖の命を狙っていることから、黄祖が孫堅を討ったという話の方が信憑性が高いようです。
いずれにしても、孫堅は大軍を率いる身でありながら、ひとりで突出して行動してしまったために、敵に討たれたのでした。
孫堅評
三国志の著者・陳寿は孫堅を次のように評しています。
「孫堅は勇猛にして剛毅で、貧しく後ろ盾もない境遇から身を起こし、張温に董卓を殺害するべきだと勧め、あばかれた陵墓を修復するなど、立派な忠節の働きがあった。しかし軽佻で性急だったため、身を滅ぼし事は破れてしまった」
評にある通り、孫堅は徒手空拳の状態から身を起こしたため、自ら先頭に立って戦うことが多くなりました。
孫堅が突出しがちだったのは、自らの個人的な武勇を示さなければ、容易に人がついてこなかったから、という事情もあったでしょう。
その能力からすれば、生存していればいずれは大勢力を築くことができたでしょうが、基盤の脆弱さが孫堅に無理をしいることになり、その身に災いをもたらしたのだと言えます。
こうして孫堅は志半ばで果てましたが、子の孫策・孫権がおおいに勢力を伸ばし、後に呉を建国したことから、『武烈皇帝』という名を贈られ、始祖としてまつられることになります。