張済を破り、敗残兵を吸収する
董卓の残党の中には張済という武将がいましたが、ある時、荊州の国境地帯に侵入してきました。
これは率いる軍を養うだけの食糧が不足したためで、略奪を目的として、劉表の支配下にあった穣城を攻撃してきます。
しかし張済は戦いの最中に流れ矢に当たり、あっさりと戦死しました。
孫堅の時といい、劉表は弓矢によって救われることが多かったようです。
これを受け、荊州の官吏たちはみな劉表に祝辞を贈りました。
すると劉表は「張済は困窮してやって来たのに、私が賓客を迎える礼を尽くさなかったから戦いになったのだ。この結果は私の本意ではない。だから弔辞は受けるが祝辞は受けない」と述べました。
そして使者を送り、張済が率いていた軍勢を迎え入れようとします。
敗残兵たちは、主君を失って不安になっていたところだったので、劉表の意向を聞いて喜び、劉表に服従することを約束しました。
こうして劉表は戦いに勝利しただけでなく、敵兵を配下にすることで、さらに勢力の強化に成功しています。
このあたりの劉表のふるまいは、君子と呼ぶにふさわしい、立派なものだったと言えるでしょう。
しかし一方で、この頃の劉表からは、儒教の思想を政治的な道具として用いているような、そんな臭みも漂い始めています。
荊州を掌握し、繁栄を迎える
その後、劉表は荊州南部の長沙・零陵・桂陽といった諸郡を手中に収め、その領地は数千里に達し、軍兵は10万を数えるほどになります。
これによって袁紹や曹操にも対抗できるほどの勢力を形勢したことになり、劉表は戦乱を生き残り、勝者のひとりになったのだと言えます。
荊州はもともと肥沃な土地でしたが、劉表の元で統一され、平和となったことで、さらに発展していきました。
劉表は学問を奨励し、穏当な統治を行ったことから、他の地域からも戦乱を逃れた人物たちが集まって来るようになります。
その結果、荊州は人材の宝庫にもなり、諸葛亮や徐庶といった、後に劉備に仕える軍師たちも滞在するようになったのでした。
袁紹か曹操か
劉表はこうして賢者の意見に耳を貸し、武将たちを懐かせ、平穏な統治を行うことで、荊州に確固たる勢力を築き上げました。
しかしながら、成功を収めた劉表は、だんだんと性格が変わっていってしまいます。
高い地位を得て、守るものができると、今度は誰かがそれを奪おうとするのではないかと怖くなり、猜疑心が強くなっていくようです。
劉表が荊州の支配を確立した頃には、袁紹と曹操の対立が表面化し、戦いが発生する状況になっていました。
袁紹は劉表に支援を求めますが、劉表はこれを承諾するものの、実際には軍を派遣せず、情勢を観望しています。
かといって曹操に味方するでもなく、中立を保とうとしました。
すると重臣の韓嵩が、劉表に進言をします。
「両雄が互いに対峙していますが、天下がどちらに傾くかは将軍(劉表)の態度にかかっています。もし自ら天下を望むのであれば、立ち上がって彼らの疲弊につけこむべきです」と、まず劉表に天下を望む意志があるかを問いました。
そして「もしもそうでないのなら、服属する相手を選択してください。応援を求められても、和睦を請われても受けないのであれば、袁紹や曹操の恨みは将軍に集中するでしょう。中立でおられることは不可能です」と劉表の置かれた立場を解説します。
「曹操は英知をもっており、天下の優れた人材はすべて帰順しています。やがては袁紹を滅ぼすことでしょう。その後で荊州に向かって来たら、これを防ぐのは困難です。ですので、荊州を挙げて曹操に従うのが最良で、そうすれば曹操は将軍を大事にし、感謝するでしょう」と韓嵩は曹操に帰順することを勧めました。
韓嵩の言うことは筋が通っており、もっともな意見でしたが、劉表はここまで言われても決断できませんでした。
自ら兵を率いて曹操や袁紹に戦いを挑むこともできず、かといって荊州を曹操に差し出す気にもなれず、独立を保って今の立場を守りたい。
それが困難だとわかっていても、劉表の心を欲が占めていたため、方針を定めることができませんでした。
やがて腹心の蒯越もまた曹操に従うことを勧めたので、劉表はさんざんに迷った後で、ひとまず曹操の元に韓嵩を送り、実情を偵察させることにします。
韓嵩を処刑しようとする
韓嵩は出発するにあたり、「私が都に使者として出向き、皇帝が私に官職を授与された場合、私は皇帝の臣下となり、将軍の旧臣であるにすぎなくなります。そうなると私は皇帝の命令を守り抜くべき立場となり、道義的には将軍のために死ぬことはできなくなります。どうかそのことをお忘れなく、私の気持ちを裏切らないでくださいますように」と念を押してから出発しました。
韓嵩は劉表への忠誠心を持っていましたが、都に上って皇帝直属の立場になると、形式的には劉表は主君ではなくなります。
それでも劉表のために働く気持ちはなくさないと、あらかじめ告げてから出発したのでした。
すると韓嵩は予測したとおり、献帝から侍中に任命され、零陵の太守にもなります。
そして荊州に戻ると、朝廷と曹操の恩徳を称賛し、劉表に子どもを人質として送るようにと進言をしました。
すると劉表は韓嵩を疑い、自分ではなく曹操のために発言しているのだろう、と決めつけます。
そして軍兵に命じ、韓嵩と都に随行した者たちを取り囲ませ、殺害しようとしました。
韓嵩は周囲の者たちに謝罪するようにと求められましたが、泰然とした様子で「将軍が私を裏切られたのであって、私が将軍を裏切ったのではありません」と述べました。
劉表はなおも怒りを持ち続けていましたが、妻の蔡氏が「韓嵩は楚(荊州)の名門の出身です。その上、彼の言葉は率直で、処刑なさるだけの理由はありません」と言って諫めます。
このため、劉表は処刑こそ取りやめたものの、韓嵩を拘禁しました。
劉表は自分の地位がおびやかされ、手に入れたものを失うことを怖れるあまり、道理にかなった人の意見を受け入れることができなくなっていたのでした。
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