戦国策についての話
これより以前のこと、豪族である李権が、秦宓に『戦国策』という書物を借りにきた事がありました。
その際に、秦宓は李権に「『戦国策』は縦横の策を記したものですが、何に用いようというのですか?」とたずねました。
李権は「仲尼(孔子)と厳君平はたくさんの書籍を集め、『春秋』と『指帰』を書きました。
それゆえに、海は流れを集めて広大となり、君子は博識によって弘遠になるのです」と答えます。
これに秦宓は批判を加えます。
「魯の歴史書や周の図書以外の書物を、仲尼は採用しませんでした。
虚無自然(老子)以外の道を、厳君平は記述しませんでした。
海は泥を受け入れますが、年に一度それを洗い清めます。
君子は博識であっても、礼に合わないものには目もくれません。
『戦国策』は蘇秦や張儀の術を反復して語り、他人を殺害して自分が生き、他人を滅ぼして自分が存続する方法を述べています。
これは経典が憎む内容です。
ゆえに孔子は発憤して『春秋』を作り、正しい生き方をおおいに表しました。
そして『孝経』を作って広く徳を行うことを説いたのです。
森が茂っていくのを防ぐには、あらかじめこれを抑制しておく必要があります。
だから老子は災いが芽生えないうちに、根絶しようとしました。
これこそが信じるべきことではないでしょうか。
殷の湯王はおおいなる聖人ですが、野の魚を捕り漁るという欠点がありました。
魯の定公は賢者ですが、妓女の舞いを見て政務を投げ出しました。
このような人たちは、挙げきれないほどに存在しています。
道家の法には、『欲望を引き起こすものを目にしなければ、心が乱れることはない』と書かれています。
それによって天地が正しく示され、日月は正しく輝くのです。
矢のようにまっすぐであること。
それこそが君子が行うべきことです。
洪範は『災いは言葉や容貌から起こる』と記しています。
これは『戦国策』が述べる詐術や、権謀のことを言っているのではないでしょうか」
このようにして、秦宓は綿密に自分の意見を述べ、その思想を明らかにしています。
疑問をもたれる
ある人が秦宓に向かって「あなたは自分を巣父や許由、四皓になぞらえ、隠者であろうとしています。
そうなることを望んでおられながら、どうして文才を発揮し、世に才能を示すのでしょう」とたずねました。
秦宓は「私の文章は、言葉の持つ力を使い切ることができていません。
また、言葉は意を充分に尽くすことができないでいます。
どこに文才が発揮されているのでしょう。
昔、孔子は哀公と三度会い、その時の言葉は七巻の書物となりました。
これは当時の状況に対し、口を閉ざしているわけにはいかなかったからでしょう。
狂接輿は孔子の前を通り過ぎながら歌をうたいましたが、『論語』の編纂者がそれを取り上げたので、華を添えることになりました。
(この内容は『論語 微子篇』に収録されています)
漁父は滄浪(蒼い流れ)をうたいましたが、屈原はそれを引くことによって、一遍の詩を飾りました。
この二人は、時代に影響を及ぼそうと思っていたわけではありません。
虎には生まれつき美しい模様があり、鳳は生まれながらにして五色です。
五つの色彩によって自分を飾り立てたわけではなく、天性自然のものです。
『河図』も『洛書』も六経も、文章の力によって広まりました。
君子は文徳に優れるものであり、文章力があることが、どうして問題になるでしょう。
愚かな私でも、なお文章力を軽視した革子成の過ちを、恥ずかしいと思いました。
(革子成は文章力を軽視し、これを重視した子貢(孔子の弟子)に論破された人です)
私より賢明な方であれば、言うまでもなく、このことはおわかりでしょう」
このようにして、秦宓は文章を世に表すことを正当化したのでした。
しかしこういった批判を受けたように、隠者として徹底してふるまえていたとは言えなかったのでした。
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