秦宓 隠者に憧れるも、文才によって世に顕れた蜀の学者

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招聘を受ける

やがて劉備が益州を平定すると、広漢太守の夏侯さんが、秦宓を招聘して師友祭酒(相談役)に任命しました。

そして五官えんを兼ねさせ、仲父ちゅうほと呼びます。
(仲父は優れた臣下に対する尊称です)

このようにして、秦宓は尊重されたのですが、どうしてこの時になって、招聘に応じたのかは不明です。

ですが本意ではなかったようで、この後も病と称して自宅で伏せっていました。

ですので、どうしても断りきれない、何らかの事情があったのだと思われます。

夏侯簒と座談をする

夏侯簒は功曹こうそう(人事官)の古朴こぼくや、主簿(事務長)の王普おうふといった側近たちとともに秦宓の家をたずね、食膳を持ち運び、座談を楽しみました。

しかし秦宓は、それまでと変わらず、床に臥せったままでした。

夏侯簒は古朴に対し「貴州(益州)が産出する暮らしのための物産は、他の州を突き放すほどに豊かだ。

人材については、他の州と比較してどうだろう?」とたずねました。

すると古朴は「前漢以来、爵位についた者は、あるいは他の州に及ばないかもしれません。

しかし書物を著述し、世の手本になった者は、他の州にも引けを取りません。

厳君平は黄帝・老子といった道家の書を見て『指帰』を作り、楊雄は『易』を見て『太玄たいげん経』を作り、『論語』を見て『法言』を作りました。

そして司馬相如は武帝のために、封禅の文章を作成しています。

それらは今にいたっても、天下の人々がみな知るところです」と答えました。

秦宓はより大きな事柄で蜀の人材を語る

これを聞いた夏侯簒は、「仲父はどう思われる?」と秦宓に話を向けました。

秦宓は次のように答えます。

「どうか明府とのは、小さな草のような私を、仲父などと呼ばれないでください。

私は明府のために、この国の歴史の大筋を説明したいと思います。

蜀には汶阜びんふの山があり、長江がその中腹から流れ出ています。

天帝はこの地に運を集め、神霊はこの地に恵みをもたらしました。

そのおかげで、肥沃な土地が千里にわたって広がっています。

淮水わいすい、済水などの四つの大河のうち、蜀を流れる長江は、その筆頭にあたります。

これが説明の第一です。

(古代の王)は、石紐せきちゅうで生まれましたが、今の汶山びんざん郡(益州の郡)がそれにあたります。

昔、ぎょう(禹の先代の王)は洪水に遭遇し、こん(堯の臣下で、禹の父親)が治水に失敗しました。

すると、禹は父に代わって長江を切り開き、流れを変え、黄河の堤を切り、東方の海へと注ぎ込ませました。

こうして禹は民衆のために、災害を取り除いています。

人が誕生して以来、功績において彼に勝るものはありません。

これが説明の二番目です。

天帝は房と心(星座の名)をみて政治をしき、しんばつ(星座の名)を見て政策を決めます。

この参と伐は益州に相対しています。

また、三皇さんこう(天から使わされた統治者)は、祇車ししゃに乗って谷口を出られましたが、これはいまの斜谷やこく(蜀の地名)のことです。

このために益州は、交通の便がよくなっています。

明府のお気持ちで判断をなさると、益州は天下の他の地域と比べて、いかがでしょう」

このように、秦宓が中国の伝承や、歴史の始まりの時期にさかのぼって益州の重要性を述べ立てたので、夏侯簒はそれ以上はたずねませんでした。

このように、秦宓には広い教養と、それを用いて弁を立てる才能があったのでした。

劉備を諫めて幽閉される

その後、秦宓は益州から召し出され、従事祭酒となりました。

221年に、劉備は蜀の皇帝に即位すると、呉に奪われた荊州を奪還するため、征討を行おうとします。

すると秦宓は「天の時機からいって、勝利が得られることはありません」と説きました。

これをとがめられ、獄に幽閉されてしまいましたが、後に釈放されています。

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