于吉の呪いによって孫策が死んだという噂が流れる
これをふまえ、孫策の死には、于吉の呪いが影響したのだ、という風聞が発生します。
孫策は于吉を処刑して以来、ひとりでいると、于吉の姿がぼんやりと見えるようになりました。
そのためにいつもいらだち、常軌を逸した行動や発言をするようになります。
そして孫策が仇討ちにあい、頬に傷を受け、その様子を確かめるために鏡を見ると、そこに于吉の姿が浮かび上がります。
しかし振り返っても誰もおらず、何度やっても同じ事が起こりました。
このため、正気を失った孫策は鏡をたたき割って絶叫し、それによって傷口が裂け、まもなく死んでしまいました。
このような話が、『捜神記』という書物に残されています。
これは事実ではないと思われますが、こういった話が呉や会稽でささやかれ、広く信じられたのは、事実でしょう。
そうでないと記録には残らないからです。
人々は孫策が于吉を処刑したことを快く思っておらず、納得もしていませんでした。
その思いが『于吉の呪いによって孫策は死んだのだ』という話を信じさせる原因になったのだと思われます。
これはそれほどに、簡単に人を殺してしまう孫策に対し、不満を抱いていた人が多かったことの表れでもあります。
孫策は自身が言うとおり、戦いに強く、天下の英傑たちと覇を競うのにおいては、適した人物でしたが、征服した地域を穏当に治め続けるのは得意ではなく、孫策が生きていたら、江東は反乱が絶えない地域になっていたかもしれません。
孫策評
三国志の著者・陳寿は「孫策はすぐれた気概と実行力とを備え、勇猛で鋭敏なこと、世に並びなく、非凡な人物を取りたてて用い、彼が抱く大きな抱負は、全中国を圧倒するものだった。しかし二人(孫堅と孫策)はともに軽佻で性急であったがため、身を滅ぼし、ことは破れてしまった」と評しています。
孫策は人並みはずれて戦いに強く、短期間で揚州を制覇し、勢力を急速に拡大させました。
その機敏さと果断さにおいては、あるいは曹操をも上回っていたかもしれません。
しかしその過程において、孫策はむやみに人を殺しすぎ、そのために恨みを買い、仇討ちによって早死にをすることになりました。
これは孫策自身の行いの結果として降りかかってきた災難であり、不運であったとは言えません。
孫策には、敵対した劉繇や、袁術の遺族を許して保護をするなど、寛容なところがあり、優れた人物を積極的に起用するといった、王者にふさわしいふるまいを、いくつも見せていました。
しかし一方で見下した者や、怒りを感じた相手は、容赦なく殺害してしまう欠点があり、それが孫策の寿命を縮めたのだと言えます。
暴力はむやみに振るい続けると、いずれはそれが自分に返ってきてしまうのだという道理を、孫策は見過ごしていたようです。
称号の問題
やがて後継者の孫権が勢力を伸ばして皇帝を名のると、孫策に『長沙桓王』という称号を追贈しています。
孫権は、父の孫堅には『武烈皇帝』という称号を追贈しているのですが、兄の孫策は『王』に留めました。
孫策を皇帝だったことにすると、孫策の子を帝位に就けるべきでは、という意見が持ち上がることになります。
そうなると、孫策の血統と孫権の血統の間で、皇位をめぐる争いが起きてしまいますので、それを防ぐための措置だったようです。
この点について陳寿は「呉の国が江東に割拠する体制は、孫策がその基礎を作ったものだった。しかるに孫権の、孫策に対する尊崇は決して十分ではなく、孫策の子に侯爵の地位しか与えなかったのは、道義の点で欠けるものであった」と評しています。
この評にある通り、孫策の子の孫紹は、呉候という地位に留められており、王にもなっていません。
そして孫紹の子、つまり孫策の孫にあたる孫奉は、「やがて帝位につくであろう」という妖言が流布されたことで、四代皇帝の孫皓に疑われ、誅殺されてしまっています。
このあたりは、孫策が弟を後継者としたことが遠因となって、発生した不幸だとも言えるでしょう。
