官位を授けられる
このころに、太傅(皇帝の補佐役)の地位にあった馬日磾は、中原の各地を巡行していました。
そして住民を安撫し、諸侯に地位を授与するなどの活動をしています。
やがて馬日磾は寿春にもやってきて、袁術に爵位を与えることになっていました。
馬日磾は寿春に到着すると、丁重な礼によって孫策を召し寄せ、懐義校尉という武官の地位を与えた、と言われています。
こうして孫策ははじめて公的な地位を得たのですが、正史の『袁術伝』には、異なる記述がなされています。
袁術は爵位を授けにきた馬日磾を拘禁し、孫策を含む自分の部下たちに、官位を与えるように脅迫をした、というのがその内容です。
こちらの方が正しいのであれば、孫策を丁重な礼で迎えたという話は、孫策を持ち上げるために作られた創作の可能性があります。
孫策は優れた若者でしたが、この時点ではまだ目立った功績はあげていませんので、袁術の無理押しによって官位を授けられたという方が、正しいのかもしれません。
袁術は孫策のことを評価していたようで、「もし私に孫策のような息子がいれば、思い残すことなく死ねるのだが」と嘆息した、という逸話が残されています。
このことから察するに、袁術が孫策に官位が授けられるよう、取り計らったのは事実なのでしょう。
部下の罪を断罪し、気概を見せる
こうして孫策は兵力と身分を手に入れましたが、ある時、部下の騎兵が罪を犯し、袁術の軍営に逃げ込む事件を起こしました。
その騎兵は軍営の奥にある厩に隠れたので、孫策は別の部下を袁術の陣営に入り込ませ、処断させます。
その後で、孫策はすぐに袁術の元に出向き、部下を勝手に軍営に入らせたことを謝罪しました。
すると袁術は「兵士たちは時に命令を拒むことがあるが、それは憎むべきことだ。君は正しいことをしたのだから、謝罪などする必要はない」と言って孫策を許しています。
孫策の父・孫堅もまた軍律に厳しく、それによって配下の者たちを統制していましたが、孫策もその性質を受け継いでいたことがわかります。
このことがあってから、袁術の陣営の中で、孫策への評価が高まり、張勲らの将軍たちも、孫策に一目を置くようになりました。
袁術が約束を違える
このように孫策は、初めのうちは袁術からそれなりの待遇を受けていました。
しかし、やがて袁術は心変わりをし、孫策との約束を守らなくなります。
袁術は孫策に「いずれ君に九江太守の地位を与えよう」と言っていたのですが、袁術が実際に任命したのは、陳紀という男でした。
こうして孫策は、袁術に裏切られてしまいます。
とはいえ、この時まだ孫策は袁術に仕え始めたばかりでしたので、太守という高い地位を与えられるには早すぎる感もあり、まだ深刻な対立にはなりませんでした。
しかしながら、袁術は再び孫策との約束を破り、それが二人の関係を、潜在的に破綻させることになります。
廬江を攻め落とすも、太守になれず
袁術は徐州への侵攻を計画し、そのための兵糧の供出を、廬江太守・陸康に命じました。
しかし陸康がこれを拒んだため、両者の関係が悪化します。
そして孫策はかつて、陸康の元を訪ねた際に会ってもらえず、部下に適当にあしらわれるという、失礼な対応を受けたことがあり、陸康のことを憎んでいました。
孫策は感情の激しい人物で、ひとたび憎しみを抱けば、それが容易に消えることはありません。
このため、袁術は孫策に陸康を討たせることにしましたが、その時に「前に九江には陳紀を登用したが、これは手違いで、本当は君を太守にしたいと思っていた。もしも陸康を討ち破ることができたら、今度こそ君を廬江太守に任命しよう」と告げます。
すると孫策は勇んで廬江に攻め込み、陸康を討ち破って城塞を占拠しました。
しかし袁術は、子飼いの部下である劉勲を廬江太守に任命し、二度に渡って孫策との約束を破ります。
これによって孫策は袁術に失望し、その言葉を信用しなくなりました。
大きな功績を立てたにも関わらず、ふさしい恩賞が得られなかったのですから、孫策が怒るのも当然のことでした。
そして孫策は袁術の元を離れ、独立することを強く目指すようになっていきます。
こうして袁術は、向こうから仕えてきた有能な若者の心を、失うことになったのでした。
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