孫策 周瑜と協力し、呉の礎を築いた天才武将の生涯

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狩猟の際に刺客と出会う

孫策は生来、狩猟を好んでいましたが、このときも待ち時間を使い、従者を引きつれ、しばしば狩猟に出ています。

ある日、逃げる鹿を追って孫策が馬を走らせると、彼の馬は俊足であったため、従者たちは孫策に追いつけず、ついてゆくことができませんでした。

このため、孫策は野において、ひとりきりで突出する状態になってしまいます。

するとそれを好機とみた刺客が、孫策に接近してきました。

この時に孫策の襲撃を計画したのは、かつて呉郡太守の地位にあり、孫策に殺された、許貢きょこうに仕えていた者たちでした。

許貢との関わり

これよりもしばらく前のこと、許貢は各地を次々と攻め落とし、容赦なく勢力の首魁たちを皆殺しにする孫策を怖れ、なんとか江東から追い払えないかと考えるようになりました。

孫策の行状からして、そう思う者が現れるのも、無理のないことだったと言えます。

許貢は朝廷に、「孫策は武芸に長けた英傑で、項羽こうう劉邦りゅうほうと覇権を争った、非常に精強な武将)によく似ております。ですので彼に恩寵を与え、都に召還なさってください。もし詔を与えられれば、孫策は都に行かぬわけにはいかないでしょう。もしこのまま地方に放置なされば、必ずや世の災いとなります」という上表文を送ろうとしました。

しかしこの上表文は孫策の斥候によって奪われ、孫策の目に触れることになります。

孫策は許貢が自分を江東から追放し、せっかく築いた勢力を切り崩そうとしていることを知り、激怒しました。

孫策は項羽に例えられたことに怒ったのだ、という話もありますが、実際には、許貢が自分を江東から排除しようとする陰謀を企んだことを知ったので怒った、という方が正しいでしょう。

孫策は許貢の元に押しかけると、会見を申し入れ、上表文を突きつけて許貢を責め立てました。

すると許貢は上表文など書いていない、と言い訳をしたので、孫策はますます怒り、部下の屈強な兵士に命じて、許貢を絞め殺させます。

このため、許貢の召使いや食客たちは、街の中に隠れ潜み、いつか仇を取ろうと、孫策の命を狙っていたのでした。

孫策は人の命を軽んじ、たやすく奪ってしまう傾向にありましたが、それを続けていると、いずれ自分の命もまた狙われるようになるのは、当然の道理だったと言えます。

矢を射られて負傷する

単騎で野を進んでいた孫策の前に、三人の男たちが姿を現しました。

彼らは許貢の食客だった者たちで、ひそかに狩猟場で孫策を待ち伏せしていたのでした。

孫策は彼らの姿を認め、「お前たちは何者だ」とたずねます。

すると男たちは「韓当かんとうの部下の兵で、ここで鹿を射ております」と答えました。

孫策は「韓当の兵はよく見知っているが、お前たちのような者は見たことがない」と言うや、ただちに弓矢を放ち、一人を射殺します。

残った二人は孫策のあまりに迅速な対応にあわてたものの、急いで弓をつがえ、孫策に矢を放ちました。

するとそれが孫策のほおに命中し、孫策は重傷を負います。

その時に、孫策の従者たちがようやく追いついてきて、残る二人を刺殺しました。

そして急ぎ孫策を軍営に連れ帰って手当をしますが、傷は深く、孫策は死の床につくことになります。

このため、孫策は張昭らの重臣たちと、弟の孫権を丹徒に呼び寄せました。

遺言をし、孫権を後継者にする

孫策は張昭に「中原の地は、いま混乱の中にある。呉越の軍勢と、三江の堅い守りをもってすれば、情勢を見定めつつ、天下の覇権を巡る争いに乗り出すことができるだろう。どうか弟をよく補佐してやってくれ」と告げます。

そして孫権には「江東の軍勢を動員し、敵と対峙しつつ時を見て行動を起こし、天下の群雄と雌雄を決するのは、おまえは俺にはおよばない。しかし、賢者を取り立て、能力がある者を任用し、彼らに力を尽くさせ、江東を保つ手腕は、俺はおまえにはおよばない」と告げると、自分の印綬を身につけさせ、後事を託しました。

そしてその夜、孫策は死去しています。

享年は、わずかに二十六でした。

于吉との関わり

史実かどうかは不明ですが、孫策の死には、于吉うきつという仙人の呪いが影響した、という話が残されていますので、以下に紹介します。

この頃の呉郡と会稽郡のあたりでは、于吉が道教の教えを説きつつ、人々の病を治していたので、信仰を集めていました。

ある日、孫策が呉郡の城門の楼で、部将や賓客を集めて宴会を開いていると、于吉が城門の下を通りかかります。

すると参加者たちのうちの三分の二は孫策をそっちのけにして宴席を退出し、于吉を出迎えて拝礼をしました。

このことから、于吉は身分のある人たちからも、相当な信仰心を集めていたことがわかります。

すると孫策は、部将や賓客たちにないがしろにされたことに腹を立て、于吉を捕らえさせました。

于吉を信仰する者たちは、助命を孫策に願い出ますが、孫策は「于吉が妖術を使って人々を幻惑し、部将たちに君臣の礼を忘れさせたのは許せない」と言い、処刑してしまいます。

于吉を信仰していた者たちは、それでも于吉が死んだとは信じず、死んだと見せかける仙術を使ったのだろうと考え、于吉を祭ることをやめませんでした。

というのが、孫策が于吉を処刑した事件のあらましです。

この記事には信憑性の怪しいところもあるのですが、孫策が呉郡で尊敬を集めていた仙人を処刑したのは、複数の記録があることから、事実のようです。

于吉には処刑されるほどの罪はなかったので、孫策の反応は過剰であったと言えます。

新たに呉や会稽郡の支配権を確立しようとしていた孫策からすると、于吉のように宗教的な力で人々の支持を集める存在は邪魔者でしかなく、そのために排除をしたのだと思われます。

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