将軍位を得て、陳瑀を討つ
孫策はこうして正式な地位を得たものの、騎都尉では郡の太守を兼ねるには、格が不足していると感じます。
このために王甫に将軍位を欲していることを伝えると、王甫は自らの権限で、孫策を仮の明漢将軍に任命しました。
こうして希望通りに孫策は将軍位を手に入れましたが、呂布や陳瑀と共同戦線をはる計画は、うまく進みませんでした。
というのも、陳瑀はひそかに孫策を敵視しており、追い落としを図って来たからです。
陳瑀は秘密裏に部下を派遣し、孫策の領地の中で、まだ政情が安定していない地域を狙いうちにして、孫策への反乱が起きるように扇動しました。
孫策はこの企みを察知し、部下の呂範らを派遣して陳瑀を攻撃させ、その士卒や妻子など、四千人を捕虜にします。
陳瑀は呉郡から逃げ出し、遠く冀州まで赴いて、袁紹の庇護を受けました。
こうして共同戦線は破綻したものの、孫策は陳瑀を追い出し、さらに勢力を拡大したのでした。

【この頃の勢力図 揚州の孫策と徐州の呂布が袁術を包囲していた】
袁術が死去する
孫策は引き続き、曹操や衛将軍の董承らと袁術の討伐にあたることになり、軍備を整えます。
しかし間もなく、袁術が死去した、との知らせが届きました。
袁術は皇帝を名のり、重税を取りたてて贅沢三昧な生活を送っていましたが、一方で民衆や兵卒たちの生活をまったく顧みずに苦しめたので、すぐに人望を失いました。
そして呂布や曹操に連敗を重ねた結果、軍事的な実力を失い、その勢力はあえなく滅亡に瀕し、失意の中で病死をしています。
最期には、蜂蜜入りの飲み物を望んだものの、それすらも得られず、窮迫のうちに死んだ、という有名な逸話があります。
身に過ぎた野心が、袁術を滅ぼしたのだと言えるでしょう。
後にはわずかな軍勢が寿春に残されましたが、後事を担当することになった袁術の従兄弟・袁胤は、もはや曹操からこの地を守りきることは不可能だろうと判断し、寿春を放棄しました。
そして袁術から廬江太守に任命されていた、劉勲を頼って落ち延びています。
(この劉勲は、先に孫策が袁術に約束を破られた際に、孫策に代わって廬江太守に任命された人物です。)
劉勲と同盟を結びつつ、隙をうかがう
孫策はこの動きを知ると、ひとまず劉勲と同盟を結びつつ、その隙をうかがい、いずれは討伐することを計画します。
孫策にとって劉勲は遺恨のある相手ですし、袁術の残党を放置すると、再び揚州で旗揚げをするかもしれず、そのままにしておくわけにはいきませんでした。
孫策はさしあたり、事前に計画していた黄祖の討伐を実行に移しました。
黄祖は荊州を支配する劉表の部下で、かつて父・孫堅を討ち取った張本人であり、孫策にとっては仇でした。
そして黄祖はこの時、揚州と荊州の境にある江夏の太守になっていましたが、それゆえに孫策からすると、荊州方面に勢力を伸ばす上で、打倒しておきたい相手でもあったのです。
このような事情によって、孫策は黄祖の討伐に乗り出しますが、やがて劉勲が拠点の晥城を出て、少人数の部隊を引きつれ、海昏という邑に向かったことを知りました。
劉勲は袁術の残党を受け入れたものの、彼らを養うための食糧を確保できない状況にありました。
このために海昏から食糧を略奪しようと考え、行軍していたのです。
こうして孫策は、劉勲が隙を見せたことを知り、方針を転換して、一気に彼の拠点を奪取することにします。
劉勲を討ち破り、袁術の残党を捕虜にする
孫策は部隊を二つに分けると、従兄弟の孫賁に八千の兵を預け、劉勲を待ち伏せさせます。
自身は周瑜とともに二万の軍勢を率いて晥城を襲撃し、すぐに降伏させました。
そして袁術が従えていた工芸者や楽隊など三万人と、袁術や劉勲の妻子を捕虜にします。
孫策は新たに部下の李術を廬江太守に任命し、晥城を三千の兵とともに防衛させると、捕虜たちを呉の街まで護送させました。
このようにして、孫策は劉勲が見せた隙をすばやく活用し、新たに廬江郡を手に入れます。
なお、袁術の遺族は孫策や孫権によって保護されており、孫家と縁組をみするなどして、厚遇されています。
袁氏は名門でしたので、放置しておくと、担ぎ出すものが現れる怖れがありました。
このため、手もとで保護をすることで、その危険を排除しつつ、同時に名門の子女との縁組みをすることによって、孫家の格上げも図ったのだと思われます。
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