大喬を妻にする
こうして孫策は晥城を占拠しましたが、この時に美人姉妹で知られる喬公の娘のうち、姉の大喬を妻に迎えた、という逸話があります。
そして周瑜が妹の小喬と結婚し、二人は義兄弟になったのでした。
周瑜はこのころに江夏太守に任命されており、荊州の攻略を担当するようになっています。
孫策は周瑜を重用し、自らその住居を用意し、軍楽隊を与えるなど、並外れた待遇を与えていました。
自らが姉と結婚し、周瑜に妹と結婚させたのも、その待遇の一貫だったのでしょう。
劉勲と黄祖を討ち破る
孫策はこうしてすばやく廬江を奪取しましたが、一方で太守だった劉勲は、待ち伏せをしていた孫賁の別働隊に討ち破られ、逃走します。
そして晥城がすでに孫策に奪われたと知ると、西塞の山中にひそみ、砦を築いて防備を固めました。
ですが、わずかな手勢では孫策に対抗できないので、劉表に使者を送って救援を求めます。
すると劉表は黄祖に支援を命じ、五千の水軍を派遣させました。
しかし孫策は西塞山に進軍すると、劉勲をあっさりと撃破します。
このために黄祖が派遣した部隊はあわてて撤退し、劉勲は砦を捨てて逃げ、やがて曹操の元に身をよせました。
孫策は劉勲の敗残兵二千と、千艘の舟を手に入れると、ついで夏口にまで軍を進め、黄祖を攻撃します。
これに対し、劉表は長矛を装備した五千の部隊を援軍に向かわせましたが、孫策はそれを撃破して勝利を収めています。
このように、孫策は向かうところ敵なし、といったありさまで、揚州に続いて荊州にも切り崩しをかけ、その生涯の絶頂期を迎えました。
孫策は戦機を見極める目が非常に優れており、その時々で、どのように動けば勝利でき、勢力を拡大できるのかを、的確に判断できる能力を持っていました。
それを周瑜や、親族の者たちが支えることで、呉の勢力は急激に伸びていったのでした。

曹操が孫策の懐柔を図る
このころ、北方では袁紹がおおいに勢力を伸ばし、四州を制覇して、天下をも制しそうなほどの勢いを見せていました。
これに対し、二州を抑えるだけの曹操は、兵力において劣勢であり、とても孫策を攻撃できるような余裕はありませんでした。
このため、曹操は孫策を懐柔することにし、自分の弟の娘を、孫策の末弟である孫匡に嫁がせます。
また息子の曹章と、孫賁の娘を結婚させるなど、曹家と孫家は、複数の縁組みによって結びついていきました。
孫策からしても、皇帝を擁する曹操と結びつきを強め、孫家の地位を高めるのは、悪くない話でした。
孫家はこの時、実力はあったものの、孫堅の代になるまでは身分が低く、中央政界とのつながりが乏しい、という弱点を抱えていました。
このため、それを解消する上で、曹操とのつながりは有用だったのだと言えます。
さらに曹操は、孫策の弟・孫権と孫翊に官位を与えるなどして、なんとか孫策をなだめ、自分を攻撃しないようにさせようと努めていました。
しかし、曹操は内心では孫策を疎ましく思っており、「狂犬とケンカをするわけにはいかぬのだ!」とつねづね、大声で言っていたそうです。
孫策は曹操にとって、悩みの種となっていたのでした。
許都を襲撃し、皇帝の奪取を計画する
やがて200年ごろになると、曹操は袁紹と全面的に対決するようになり、官渡の地で対峙します。
孫策はその情勢を見て、曹操が不在の許都に攻めこみ、皇帝の身柄を奪取しようと計画しました。
曹操が警戒した通り、孫策の志は天下の覇権を争うことにあり、曹操との同盟を維持するつもりはなかったのです。
この時の曹操は袁紹にかかりきりで、余裕はまったくありませんでしたので、もしも孫策が計画通りに許都に攻めこみ、袁紹と南北から挟み撃ちをする状況になっていれば、さしもの曹操と言えど、滅亡の危機に瀕することになったでしょう。
しかし孫策は、その計画を実行に移すことは、できませんでした。
陳登の討伐に向かう
揚州のすぐ北に位置する、広陵太守の陳登は、かつて孫策に追放された陳瑀の兄でした。
陳登は弟が追放されたことの仕返しをするために、孫策を敵視するようになります。
このため、孫策が征西のために軍勢を出発させると、その後方を攪乱すべく、使者を送って厳白虎の残党に反乱を起こさせました。
これを受け、孫策はいったん軍を戻すと、先に陳登を討伐するべく、再び出撃します。
そして丹徒の地に陣営を築き、兵糧が輸送されてくるのを待ち受けました。

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