曹操の行いへの評価
この時の曹操の措置について、後世の史家が高く評価をしています。
東晋の歴史家・習鑿歯は、「かつて張魯が王号をとなえようとした時、閻圃はこれを諫めてやめさせた。
曹操はそこまで事跡をさかのぼって、閻圃に爵位を与えた。
これを知った後世の者たちで、道義に従うまい、と考える者がいるだろうか。
もし閻圃をこのように評価せず、戦火をくぐり、死力を尽くして戦った人々にだけ高い爵位や、報償を与えたのであれば、人々は乱世にこそ利益があると考えるようになる。
俗人どもは殺戮を競い、武器を頼みとし力に頼り、戦乱はいつまでも終わらないだろう。
曹操のこの封爵は、そのような賞罰の根本の原理を理解してこそ初めて成しえるもので、周の文王ら、古代の高名な王たちであっても、これ以上のことはできなかっただろう」としています。
曹操はこれ以外にも、荊州の劉琮が降伏して来た時にも、降伏を勧めた家臣に爵位を与えて厚遇しています。
それによって各地の勢力の降伏を促進させる意図があったのでしょうが、一方においてこの行為は、「そうしなければいつまでも戦乱が終わらないからそうするのだ」という考えにも、基づいていたのだと思われます。
これらの事例から、曹操は単に戦いに強いだけでなく、施策によって平和を作り出していけるだけの、優れた見識を持っていたことがうかがえます。
張魯評
三国志の著者・陳寿は「張魯は賊の生活を捨てて功臣の中に名を連ねるこことなり、危機存亡の生き方を離れて、祖先の祭りを保った」と評しています。
(これは同じように曹操に降伏した、張燕らと並べて評されています)
張魯は一地方を三十年に渡って平穏に治め続け、賢明な側近を起用していたことから、当人も優れた見識を備えた人物だったことがうかがえます。
立場や財宝への執着心も乏しく、それが張魯が高い地位を保ったまま、生涯をまっとうさせることにつながりました。
勢力を築くまでの過程では、他の群雄たちと同じように、争いごとに身を投じていましたが、情勢が安定してくると、心が穏やかになっていったようです。
張魯がそのような人生をたどったことを思うと、道術というのは、悪い教えではないのかもしれません。
一方、曹操に降伏した翌年に死去していることから、死期が迫るほどに老いていたために、執着心が乏しくなっていた、という事情もあった可能性があります。
ともあれ、宗教の主催者にして、一地方の支配者でありながら、その地位をあっさりとあきらめ、高官として世を終えたのは、歴史全体から見ても希有な事例だと言えます。
曹操が評したとおり、張魯は本来善良な人物だったのでしょう。
なお、五斗米道はその後「正一教」と名が変わり、現代にまで続いています。