漢中の支配体制
張魯は以下のようにして、漢中の支配体制を固めています。
まず、自らを「師君」と号して教団の頂点に君臨します。
張魯の元に道術を学びに来た者は、最初「鬼卒」と呼ばれました。
そして道術を習得し、信仰心を抱くようになった者を「祭酒」と呼び、信者たちを束ねる権限を与えます。
祭酒の中でも特にその団員が多い者は「治頭大祭酒」と呼ばれました。
このようにして、信者の等級を定め、階層化を図ることで、教団の体制を安定させたのです。
そして信者たちには、「誠実にふるまい、嘘をつかないように」と求めました。
そして病気にかかると、それは犯した罪が表面化したものだと捉え、その罪を告白させています。
こういった仕組みは、黄巾党なども、ほぼ同じようなものでした。
当時は、病は心の内に抱えるやましさから生まれるものだという思想が、民間では根強く信仰されており、それを宗教勢力は利用し、信者を獲得していったのです。
病を癒やすのは、精神の咎を解放することを意味し、治らなければ、それは信心が不足しているからだとされました。
このようなまじないめいたことを行っていたため、張魯は「無知な民衆を騙している」と、知識人から批判されています。
祭酒の統治
祭酒たちはみな「義舎」という建物を作り、信者たちに、そこに余った食糧を納めさせました。
そこに米肉を吊り下げておき、旅人が訪れると、満腹になるだけの量を、自由に取ることを許します。
これには旅人を教団に引きつけてそのまま定住させ、漢中の人口を増やそうとする思惑がありました。
食糧を余分に取った場合には、「妖術によってすぐに病気にかからせ、罰する」と言って戒めています。
刑罰の実施や行政の仕組み
教団が定めた規則に違反した者がいると、三度までは許し、それでも違反をしたら、初めて刑罰を課す、という制度になっていました。
そして、ささいな罪を隠している者は、道路を百歩分だけ修理すれば、その罪が許されました。
なかなか寛容な統治体制だったのだと言えます。
そして各地に行政官を置かず、祭酒にすべて治めさせたので、手続きの煩雑さがなく、民衆や蛮族は、みなその方が便利だとして喜びました。
張魯の教団は、信者に五斗の米を納めさせたことから「五斗米道」と呼ばれましたが、漢中は彼らの手によって、安定した統治が行われる地域になります。
この結果、張魯は三十年にも渡り、巴と漢の地に割拠しました。
こうなると、もはやただの宗教団体の域を超えた存在になっていたのだと言えます。
他の地域が戦乱にみまわれ、民衆が苦しめられていたことを思うと、漢中は一種の別天地になっていたのだとも言えるでしょう。
朝廷から恩寵を受ける
後漢の末期には、朝廷に張魯を討伐するほどの実力が失われていましたので、張魯に使者を送り、鎮民中郎将という地位を与えました。
そして漢寧太守の官位を授け、貢物さえ納めれば、干渉をしないという恩寵をも与えています。
これには、下手に刺激をして朝廷に反逆されるよりも、なるべく穏当に、形だけでも支配下に置いておきたいという、弱体化した朝廷の思惑が見えてきます。
王を名のるべきと勧められる
こうして張魯の地位がすっかりと確立されると、住民の中から、張魯に玉印を献上する者が現れました。
すると張魯の部下たちは、「漢寧王」を名のってはどうかと、張魯に勧めるようになります。
これに対し、功曹(補佐役)の閻圃が張魯を諫めます。
「漢川の住民は十万人を越え、財政は豊かになりました。
そのうえ土地は肥沃で、周囲は険しい地形に守られています。
ですので、首尾良く事が運べば、皇帝を補佐するほどの立場となり、斉の桓公や晋の文公のようにもなれましょう。
(いずれも春秋時代に覇者となった人物です)
もしもうまくいかなくとも、覇者に従えば、富貴の身分を失うことはないでしょう。
既に独断でものごとを決定でき、刑罰を与える権限を持っているのですから、王になるまでもありません。
しばらくは王を名のらず、名のることによって受けるかもしれない災厄を避けられた方が、よろしいでしょう」
これを聞くと、張魯はその意見がもっともだと思い、王を名のるのを取りやめました。
勝手に王を名のると、朝廷の支配下から離脱することになり、反逆者として討伐を招き寄せかねない危険が発生します。
閻圃はそのような道理をわきまえて、張魯を諫めたのでした。
これを張魯が受け入れたことが、後に張魯を救うことになります。
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