やがて亡くなる
張既は涼州と雍州を十余年にも渡って統治しましたが、その政治と仁愛は高い評価を得ます。
また、張既が礼を用いて召し出した扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、敦煌の張恭や周生烈などは、最終的にみな地位と名声を得ました。
このようにして、大きな功績を残してから、張既は二二三年に亡くなっています。
次のような詔勅が出されました。
「その昔、荀桓子が翟で功績を立てた際、晋候は千家の邑を恩賞として与えた。馮異が漢のために尽くすと、光武帝は二人の子に領地を与えた。
もと涼州刺史の張既は民を受け入れ、民を養い、羌族たちの情勢を安定させた。国家の良臣と言える。不幸にも逝去したが、朕はこれをとても残念に思う。よって少子の張翁歸に関内侯の爵位を授ける」
やがて曹叡が即位すると、粛候のおくりなが追贈されています。
子の張緝が後を継ぎました。
張緝は中書郎から身分を高め、やがて東莞の太守になります。
そして娘が皇后になり、召し寄せられて光禄大夫(皇帝の側近)にまで立身しました。
特進(大臣待遇)も与えられ、妻の向は安城郷君に取り立てられます。
しかし張緝は、やがて中書令の李豊と共謀し、謀反を企んだと疑われ、司馬師によって処刑されてしまいました。
その孫の張殷は、晋の時代に梁州刺史になっています。
張既評
張既はこのように、文武に秀で、戦いと統治の両面で大きな功績を残しています。
担当した涼州方面は、異民族が多く住んでおり、情勢が不安定な土地でしたが、張既は優れた策によってこれを平定し、魏の領土として確保することに成功しています。
この地はしばらく後に、諸葛亮に攻め込まれて争乱の地となりますが、魏はしぶとく守り通しています。
この結果には、あらかじめ張既が優れた統治を行い、民や異民族を魏に帰順させていたことの影響が大きかったでしょう。
主要な戦いに関わっていないため、あまり語られることがありませんが、三国志の時代における西方の情勢に、大きな影響を及ぼした人物だと言えます。