馬騰を都に呼び寄せる
北方を征した曹操は、次に南の荊州を攻めようと計画します。
しかし馬騰らが関中で割拠したままでいると、戦力を集中させることができません。
このため、曹操は張既に命じ、馬騰に軍を解散し、帰郷するようにと要求させます。
馬騰はこれを一度受け入れたものの、態度をひるがえし、なかなか実行に移しませんでした。
張既は反乱が起きることを懸念し、諸県に布告して食糧を蓄えさせます。
その一方で、郡太守に郊外まで出迎えをするように命じ、関中の掌握をはじめました。
馬騰はこの様子を見て、しかたなく曹操の要求に応じ、都に向かって出発しました。
馬騰がやってくると、曹操は上奏して衛尉に任命し、馬超を将軍にして軍をまとめさせます。
こうして西方の情勢が落ち着いたので、曹操は荊州の討伐を実行に移しました。
馬超の反乱を討伐する
その後、曹操は荊州に侵攻したものの、赤壁の戦いで大敗し、北方に戻ってきます。
曹操は次に漢中の張魯を討伐することを計画しますが、実際には関中を狙っているのではないかという噂が流れ、諸将が動揺しました。
この機を利用し、馬超は将軍たちを焚き付け、曹操への反乱を起こします。
張既は曹操に従って馬超の討伐に参加し、華陰において馬超を打ち破りました。
そして西に進み、関右を平定します。
京兆尹に任命される
戦いが終わると、張既は京兆尹(長安の行政長官)に任命されました。
就任すると、流民を招き寄せて住まわせ、県や邑を復興させ、民から慕われるようになります。
やがて曹操が魏王になり、魏国が設置されると、尚書(政務官)になりました。
それから雍州の刺史(長官)となり、地位が高まっていきます。
この時に曹操は「君を故郷の州に戻すが、立派な服を着て昼に行く、と言ってよいだろう」と言いました。
これは項羽がかつて、『成功を収めて故郷に戻らないのは、錦の服を着て夜歩くようなものだ』と言ったことになぞらえたのでした。
漢中の討伐に参加する
二一五年になると、曹操は漢中の張魯を討伐します。
張既は別働隊を率いて散関を進み、抵抗した氐族を討伐し、麦を刈り取って食糧に割り当てました。
張魯が降伏すると、張既は漢中の住民を長安の付近に移住させ、人口を増やすようにと勧めます。
これは実行に移され、漢中の十万の民は北方に移りました。
劉備軍を撃破する
その後、蜀を抑えた劉備が北上し、別働隊を派遣して、下弁を攻撃してきました。
これを張既と曹洪が迎え撃ち、劉備軍の呉蘭を撃破しています。
また、涼州で抵抗を続けていた宋憲を、夏侯淵とともに討伐しましたが、別軍を率いて臨洮、狄道を平定しました。
このようにして張既は、西方の情勢を安定させるのに貢献しています。
住民の動揺を抑える
このころ、曹操は各地の民を移住させ、河北の人口を増加させていました。
このため、涼州の隴西、天水、南安の三郡の住民は、自分たちも移住させられるのではないかと心配して動揺し、情勢が不安定になります。
これを受け、張既は三郡出身の軍人や官吏たちに休暇を与え、住居の修理にあたらせました。
また、水碓という、水の力を利用して動かす臼を作らせるなどしてインフラを整備し、住民を移住させる意図がないことを示します。
これらの措置によって三郡の動揺は鎮まり、民心が安定しました。
氐族を移住させる
二一九年に劉備が漢中に攻め込み、司令官である夏侯淵を討ち取ると、曹操は漢中から完全に撤退することを検討します。
しかし、劉備がさらに北に進出し、武都の氐族を味方につけ、関中を圧迫してくるのではないかと懸念しました。
このことを張既に相談すると、張既は次のように答えます。
「氐族に北方に移動し、穀物が豊富な場所に住むように働きかけ、賊(蜀軍)を避けさせるのがよいと思います。早く到着した者に手厚く褒賞を与えれば、後から続く者たちの気を引くことができます」
曹操はこの策を採用し、自ら漢中におもむき、軍勢を撤退させました。
そして張既を武都に向かわせ、五万の氐族を移住させ、扶風や天水の郡の境界に住まわせます。
先の漢中の措置とあわせて、張既は蜀が人口を確保するのを妨げ、魏の人口を増やす働きをしました。
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