兗州刺史となって名声を得る
やがて司馬朗は、兗州の刺史(長官)に昇進します。
ここでも司馬朗は善政をしいたので、民に讃えられました。
軍事活動に参加している際にも、いつも粗衣粗食を守り、質素をむねとして部下たちを指導します。
普段から人物評価と古典を好んでいましたが、同郷の李覿らが、盛んに名声を得ていたことがありました。
しかし、司馬朗は世間の評価とは別に、いつも低い評価を彼らに与えます。
後に李覿らは失敗を犯したので、人々は司馬朗の見識を高く評価しました。
司馬懿に対する評価には同意せず
司馬朗は曹操の重臣である崔琰と、親しく付き合っていました。
司馬朗の弟である司馬懿が成人したころ、崔琰は司馬朗にこう述べています。
「あなたの弟は聡明で、果断でもあり、とても優れた人物だ。おそらくあなたでもおよばないでしょう」
司馬朗はこの意見に賛同しませんでした。
崔琰に限らず、楊俊という者もまた、若き日の司馬懿に会い、「並の人間ではない」と評しています。
司馬朗は身内のことだったので、特にほめたりはしなかったようですが、司馬懿の才能はよその者たちから、高く評価されていたようです。
聖人について議論する
ある時、鍾繇と王粲が論文を著し、「聖人でなければ太平な世を招くことはできない」と主張したことがありました。
すると司馬朗は「伊尹や顔回は聖人ではないけれども、このような人たちが数代にわたって政治を担当したならば、太平を招くことができよう」と述べました。
聖人とは堯舜のような、古代の伝説的な王たちのことで、優れた人格と能力を持っており、安定して発展していく社会を作り出したとされています。
伊尹や顔回はそこまではいかずとも、優れた見識を備えた者たちでした。
そのような、聖人にはおよばないまでも、優れた者たちが長きに渡って政治を担当し続ければ、聖人と同じことができるだろう、と司馬朗は考えたのでした。
曹丕は司馬朗の意見を高く評価し、秘書に命じて記録させています。
疫病にかかって亡くなる
二一七年になると、司馬朗は夏侯惇や臧霸らとともに、呉の討伐に参加しました。
やがて居巣に移動すると、兵士たちの間に疫病が大流行し、多くの被害が出ます。
司馬朗は自ら巡察し、薬を与えましたが、やがて自身も病気にかかり、亡くなってしまいました。
享年は四十七でした。
司馬朗は亡くなる前に、兵士たちに次のように遺言をしました。
「私は国家から大きな恩を受け、万里の外で軍の監督者になったが、功業を立てないうちに、疫病にかかってしまった。もう助かることはなく、恩にそむくことになった。
私が死んだ後は、麻布の服と幅巾、季節の服を着せてくれ。私の遺志を違えることがないように」
これによって司馬朗の遺骸には、庶民が用いる麻布の服に身を包み、幅巾という簡単な作りの頭巾がかぶせられます。
司馬朗は、最後まで質素であることを望んだのでした。
生前の善政によって、州民たちからその死を惜しまれ、追慕されました。
後に曹叡が魏の二代皇帝に即位すると、子の司馬遺を昌武亭候に取り立て、百戸の領地を与えています。
司馬朗について
司馬朗は慈悲深く、思いやりのある人だったので、地方長官として優れた資質を持っており、戦乱によって疲弊していた地域の統治に活躍しました。
軍事に関する才覚では弟の司馬懿の方が優れていましたが、人格においては司馬朗の方が優れていたと言えます。
この点は司馬懿自身も認めていた、という逸話があります。