黎陽に移動する
司馬朗は、董卓は必ず滅亡するだろうと判断し、引き止められることを懸念しました。
なので財物をすべてばらまき、董卓によって権勢のある地位に取り立てられていた者に賄賂を贈り、郷里に帰れるように手配します。
そして温に帰り着くと、村の長老たちに向かって言いました。
「董卓には道義がないので、天下の敵となっています。なのでいまは、忠臣や義士が決起する時です。
我が郡は都と境界を接していますが、洛陽の東には成皋という要害があり、北は大河によって区切られています。義兵を上げた者たちが進軍できない時には、地勢から言って、必ずこの地にとどまることになります。
このため、この地は四分五裂し、大変に乱れ、激しい戦いが行われる舞台となります。とても自力で安定させることはできないでしょう。道がまだ通じているうちに、一族をあげて東の黎陽に向かうべきです。
黎陽には陣営が敷かれており、軍兵がいます。趙威孫は郷里の親戚で、陣営の監督者として兵馬を統率しており、頼ることができます。そこで情勢の変化が訪れるのを、ゆっくりと待つのがよいでしょう」
しかし長老たちは故郷にとどまることを望み、司馬朗に従う者はいませんでした。ただ、同じ県の出身である趙咨だけが、家族を連れて司馬朗とともに黎陽に向かうことにします。
それから数ヶ月がたつと、司馬朗が予測した通り、関東の諸州で袁紹など、多くの者たちが旗揚げしました。そして数十万の軍勢が滎陽と河内に集まります。
そこで将軍たちは協力せず、軍兵を送っては略奪をしてまわらせたので、半数近くの民が死亡しました。
こうして司馬朗は難を逃れましたが、郷里の者たちを救うことはできない結果になっています。
温に帰還する
それから数年がすぎると、董卓を討つために集まっていた者たちは解散し、曹操と呂布が濮陽で対決するようになりました。
このころ、司馬朗は家族を連れて温に戻りました。
すると大飢饉にみまわれ、人々が互いに食い合うようなありさまになってしまいます。
そんな中、司馬朗は一族の者たちをいたわり、若者たちの養育にあたり、乱世だからといって、務めをおろそかにすることはありませんでした。
このようにして、司馬朗は一族を守りましたが、この働きがなければ、司馬懿が戦乱を生きのびることはできていなかったかも知れず、その後の歴史に影響を及ぼした行いだと言えます。
県長になって善政をしく
司馬朗は二十二才のとき、曹操に招聘され、司空掾属(属官)となります。
そして成皋の県令に任命されました。
しかし病気にかかったので職を離れ、回復してから堂陽の県長になります。
司馬朗の政治は寛大で、民に恩恵をもたらすものでした。
むち打ちなどの刑罰を課さなくても、民が法律を犯すことはなくなりました。
ある時、堂陽の住民のうちで、都の周辺の人口を増やすために、移住させられた者たちがいました。
後に堂陽は、船を作るようにと命じられますが、移住していった住民たちの中に、堂陽では十分に調達しきれないのではないかと、心配した者たちがいました。
このため、連れ立ってこっそりと堂陽に戻り、調達の手助けをしています。
司馬朗が住民たちから敬愛されていたことが、この話からわかります。
後に元城の県令に昇進し、中央に呼ばれて丞相主簿(曹操の側近)になりました。
政治に対する見解を述べる
司馬朗は中央に入ると、次のように意見を述べました。
「天下が崩壊したのは、秦が五等級の爵位制度を撤廃したことと、いざという時に備え、各地の郡や国で軍事教練を行っていなかったことに起因する。
いま爵位制度を復活させることはできないが、州や郡にはそれぞれに兵を配置し、外に対しては周辺からの敵に備え、内に向かっては不逞の者たちを制するべきである。この方策は有益である」
また、次のようにも述べています。
「井田の制度を復活させるべきである。昔は民が代々の財産を蓄えており、途中でそれを取り上げるのは困難だったので、そのままになっている。
いま、大乱にみまわれ、民は分散し、土地には所有者がいなくなり、すべて政府のものになっている。この機をとらえ、制度を復活させるべきである」
井田とは、正方形の土地を九つに分け、そのうちの八つを民に給付し、残りの一つを公田とし、その収穫を税として納めさせるという制度でした。
このようにして、司馬朗は復古的な思想を抱いていたのです。
結局のところ、これらの意見は実施されませんでした。
しかし、やがて州や郡が兵を保持するようになり、これは司馬朗の意図したことと同じでした。
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