呂蒙を怒らせる
甘寧は粗暴で、すぐに人を殺してしまうので、何かと問題を起こしがちな人物でもありました。
あるとき、甘寧の料理番が失敗をし、罰を恐れて呂蒙の元に逃げ込んだことがありました。
呂蒙は、甘寧はきっとこの料理番を殺してしまうだろうと思い、すぐには送り返しませんでした。
しばらくすると、甘寧は呂蒙の母親に贈り物をし、「お目にかかってご挨拶がしたい」と申し入れます。
そして呂蒙の家の座敷で、呂蒙もまじえて会うことになったのですが、この時に甘寧が料理人を殺さないと約束したので、呂蒙はだいじょうぶだろうと思って送り返しました。
すると甘寧は、戻ってきた料理人を桑の木に縛りつけ、みずから弓を引いて射殺します。
その後で、水夫に命じて船をしっかりとつなぎとめさせると、上着を脱いでから、船の中で横たわりました。
呂蒙の気持ちを裏切った以上、必ず自分を責めるだろうと、覚悟をしたのです。
それがわかっていても、なお料理人を殺してしまったことに、甘寧という人物の不思議さがあります。
彼は何があろうとも、恩や仇には、必ず報じなければ気がすまない性格だったのでした。
呂蒙は攻めかかろうとするも、母に説得される
呂蒙は甘寧が約束を破ったことを知ると、腹を立てて兵士を召集し、甘寧の船に押しかけようとしました。
すると呂蒙の母がはだしで外に飛び出して、呂蒙をいさめます。
「陛下(孫権)はおまえを肉親のように思い、大事を託されておいでです。
私怨のために腹を立て、甘寧を攻め殺したりしてはいけません。
もしも甘寧を死なせたら、たとえ陛下から問責されなかったとしても、おまえは臣下にあるまじきことをしたことになります」
呂蒙はもともと孝心の厚い人物だったので、これを聞くと甘寧への怒りが、すっと解けてしまいました。
呂蒙は甘寧の船の前にやって来ると「興覇どの、母があなたを食事に招いています。
急いで岸にあがられますよう」と、穏やかに呼びかけます。
すると甘寧は「あなたには申し訳ないことをしました」と涙を流し、嗚咽しながら言いました。
そして呂蒙と一緒に母親に目通りをすると、終日に渡ってもてなしを受けています。
このように甘寧は、非常に感情が激しい人で、それにいったん火がつくと、常軌を逸した行動を取ってしまうこともあったのでした。
劉表や黄祖が彼を用いなかったのは、自分たちには扱いきれないだろうと、判断していたからなのかもしれません。
懐の広い孫権や呂蒙がいたからこそ、甘寧は呉で活躍できたのだと言えます。
死去する
こうして甘寧は呉において激しく戦い、一方では何かと騒動を起こしており、名物男とも言える存在でした。
そんな彼も、合肥の戦いの翌216年に亡くなっています。(215年に死去したという説もあります)
甘寧は粗暴だという欠点はありましたが、裏表のない性格で、将来を見通す優れた知性を備えていました。
そして物惜しみをせず、有能な人物を用い、勇敢な兵を養うことに努めたので、兵士たちは彼のために喜んで働きました。
甘寧は将器を備えた人物だったのだと言えます。
このため、孫権は甘寧の死を大変に惜しみました。
孫権による甘寧評
甘寧はあるとき、孫権の従弟の孫皎と大げんかをしたことがありました。
この時に甘寧をいさめる者がありましたが、甘寧は「臣下も公子も同列であるはずだ」と言って、決して自分から謝ろうとはしませんでした。
するとこれを知った孫権は、孫皎に手紙を送り、叱りつけます。
これは孫皎が、酒に酔って甘寧を侮辱したのが、けんかの原因だったからです。
孫権はこの手紙の中で「甘寧は繊細さを欠いて向こう気が強く、人の気持ちを損ねることがある。
しかし大きく見れば立派な人物だ」と評しています。
孫皎は手紙を受け取ると、陳謝した上で、甘寧と親しく付き合うようになりました。
このように、孫権は甘寧のような癖が強い人物をも使いこなす度量があったために、成功を収められたのです。
そして長所を重んじ、短所をとがめない主君を得たことではじめて、甘寧はその力を存分に発揮し、歴史に名を残すことができたのでした。