孫権は反対を振り切って進軍する
甘寧がこのように献策した時に、孫権の腹心の張昭が同席していました。
彼は慎重な性格の人物だったので、今の状況で荊州に進軍すると、呉で反乱が起きるかも知れないと述べ、甘寧の策に反対します。
これに対して甘寧は「陛下はあなたに蕭何の任務を託しておられます。
留守を任されながら反乱を心配するのは、矛盾するのではありませんか」と指摘します。
蕭何は漢の高祖・劉邦に仕え、その本拠である関中を統治し、食糧と兵士を安定して供給して、劉邦に勝利をもたらした宰相です。
張昭は内政を得意とし、孫権にとっての蕭何に当たる役割を任されていました。
にも関わらず、本拠の治安が乱れると警告するのは、自分の任務を果たせていないと述べるのに等しいと、甘寧は鋭く指摘したのです。
このように、甘寧は戦いに強いだけでなく、智謀も優れていたのでした。
孫権はこれを聞くと、酒を取り上げ、甘寧の杯に注ぎます。
「興覇どの。今年の軍事行動は、この酒のようにあなたに引き受けてもらおう。
あなたは軍略をめぐらし、黄祖の撃破を確実なものにしてもらいたい。
それを成し遂げるのがあなたの務めであって、張長史(張昭)の言うことなど気にかける必要はない」
こうして孫権は、荊州の内情に詳しい甘寧を得たことで、本格的に攻略に乗り出したのでした。
夏口の攻略に成功する
孫権は軍勢を動かすと、甘寧の策によって黄祖をとりこにし、彼の軍勢をそっくり手に入れます。
孫権はこの成功に際し、功績のあった甘寧に兵を授け、当口に駐屯させました。
こうして甘寧は、呉の武将としての地位を確立します。
甘寧は黄祖への怨みを晴らすことができ、すっきりとした気分になっていたことでしょう。
甘寧は一度受けた仇には、仕返しをしないではいられない性格を備えていました。
蘇飛を救う
孫権は夏口を攻めるにあたり、あらかじめ二つの箱を用意していました。
これは敵将である黄祖と蘇飛の首を収めるためのものだったのですが、これを知った蘇飛は、自身の危機を甘寧に知らせます。
すると甘寧は、「もしも蘇飛が自分から言ってこなかったとしても、どうして彼から受けた恩を忘れるものか」と言いました。
そして孫権が部将たちを招いて酒宴を開くと、甘寧はその場で席から外れ、頭を地面に打ち付け、血と涙を流しながら、孫権に向かってこう告げました。
「蘇飛はかつて、私に恩義を施してくれました。
もし蘇飛と出会うことがなければ、私は路傍で野たれ死にをしていたに違いなく、将軍さまに仕えてご命令を受けることもなかったでしょう。
蘇飛の罪は誅殺に値するものですが、どうか私に彼の首をお預けくださいますように、まげてお願いいたします」
孫権は甘寧に「もしもあなたに免じて彼の罪を問わなかったとして、それで彼が逃亡したらどうするのか」と問いました。
すると甘寧は「蘇飛は、首をはねられるべき危機を逃れ、死すべき命が生かされたという恩を感じ、決して逃げたりはしないでしょう。
それでも万が一、逃亡しました場合には、私の首をその箱に収めてくださいませ」と答えました。
甘寧の覚悟を聞いた孫権は心を動かされ、蘇飛を許すことにします。
こうして甘寧は、蘇飛から受けた恩を返したのでした。
甘寧は夏口において、仇と恩の、どちらにも報いたことになります。
これが甘寧の生涯を貫く生き方でした。
南郡に攻めこむ
その後、甘寧は周瑜の指揮下に入り、赤壁の戦いに参加して戦功を立てます。
曹操が北方に撤退すると、呉軍は荊州を支配下に置くべく進撃しました。
そして南郡の江陵を守っていた曹仁に、周瑜と劉備が指揮する大軍が攻めかかります。
しかし曹仁の守りは堅く、周瑜の派遣した先鋒隊が打ち破られるなどして、戦況が膠着しました。
このため、甘寧は夷陵に進出し、そこを奪って曹仁の背後を脅かす策を立てます。
これを周瑜が承認すると、夷陵に攻めこみ、やすやすと占拠することに成功しました。
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