甘寧 侠客から呉の将軍へと登り詰めた男の生涯

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曹仁の別動隊を防ぎ、戦況を有利にする

この時、甘寧が率いていたのは、降伏した兵を加えても千人程度のものでした。

曹仁はこれを知ると、夷陵を奪還するために五、六千の兵を差し向けて来ます。

このため、すっかりと夷陵の城は包囲され、攻撃を受けるようになりました。

曹仁の別動隊は、城の周囲に高いやぐらを建て、そこから激しく矢を射かけてきます。

このため、城内の兵士たちは大変に恐れましたが、甘寧だけは楽しげに談笑をし、気にかける様子を見せませんでした。

こうした豪胆な態度によって士気を保ちつつ、甘寧は周瑜に救援を求める使者を送ります。

すると周瑜は救援に駆けつけ、包囲軍の半数を討ち取る大戦果を挙げます。

こうして甘寧の行動は、曹仁の戦力を削る上で、大いに役に立ったのでした。

この戦いも影響し、やがて曹仁は撤退をしたので、呉は荊州の中部を制することができました。

孫権に益州を奪うように勧める

荊州への進出が本格化すると、甘寧は周瑜とともに、孫権に益州をも占拠するように勧めます。

かつて甘寧は劉璋に反乱を起こして失敗しましたが、その後も劉璋はたびたび反乱を起こされており、統治はうまくいっていませんでした。

このため、その気になれば益州を手に入れるのは難しくない状況であり、甘寧と周瑜の意見は的を得たものだったと言えます。

甘寧には情勢を読み取り、的確な見通しを立てる能力がありました。

しかしこの策は、周瑜が間もなく病死し、劉備に先を越されたことによって、実現できませんでした。

曹操の大軍に立ち向かう

やがて212年になると、曹操が孫権を討つべく、濡須じゅしゅへ大軍を率いて押しよせてきました。

この時に曹操は、「四十万の歩兵と騎兵を率い、長江で馬に水を飲ませるのだ」などと豪語し、呉を圧迫します。

孫権はこれに対し、七万の軍勢を率いて出撃し、甘寧には三千の兵を預け、前部督ぜんぶとく(先鋒)に任命しました。

出撃に際し、孫権が特別に酒やごちそうを甘寧の陣営に送ったので、甘寧はそれを百名ほどの配下の兵士たちに与えます。

食事が終わると、甘寧は銀の椀に酒をくみ、二杯飲みました。

そして配下の都督(指揮官)にも酒を与えようとしましたが、彼は床につっぷしたまま、飲みたがりません。

この都督は曹操が大軍を率いていることを怖れ、酒を飲んで攻撃に出ることを拒否したのでした。

すると甘寧は抜き身の刀を手に取り、膝の上に置くと、その都督をどなりつけました。

「おまえとこのおれと、陛下が大切にされているのはどちらだ?

より大切にされているおれですら命を惜しまぬのに、おまえだけがどうして命を惜しむのだ!」

都督は、甘寧が厳しい顔つきで自分をにらんでいるのを見ると、すぐに身を起こして拝礼し、酒を受け取って飲み干しました。

そして全ての兵士たちに、一杯ずつしゃくをして回ります。

こうして甘寧は、将兵たちに決死の覚悟をさせると、この百人だけを率いて夜半に出撃しました。

甘寧地図2

曹操軍を慌てさせる

甘寧たちは大胆にも、曹操の軍営の間近にまで突入します。

そしてさかもぎ(杭)を引き抜き、堡塁を乗り越えて陣屋の中に入り、数十人の敵兵を斬り捨てました。

曹操軍はこの夜襲に慌てふためき、太鼓を打ち鳴らし、火をともして陣営をこうこうと明るくします。

しかしその時には、甘寧はすでに自軍の陣営に戻っており、後の祭りでした。

そして笛や太鼓を鳴らし、「万歳!」と叫んで、曹操軍の鼻を明かしたことを誇示します。

甘寧はそのまま孫権に目通りをすると、孫権はおおいに喜びました。

孫権は「おいぼれめを驚かせてやることができたか。

あなたの肝っ玉は実にたいしたものだ」と言い、その場で絹千びきと刀百口を報償として与えます。

「曹操には張遼がおり、私には甘寧がいる。

これでちょうど釣り合っていると言えよう」

孫権はそうも述べ、曹操軍随一の猛将である張遼と、甘寧は同等の強さを持っていると評しています。

この甘寧の奇襲によって気勢をそがれたのか、曹操軍は一ヶ月ほど帯陣した後、引きあげています。

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