蒋琬を恨む
その昔、楊儀が劉備の尚書だった頃には、蒋琬は尚書郎であり、楊儀よりも身分が下でした。
後に、ともに諸葛亮の元で長史になりましたが、楊儀はいつも遠征に随行し、激務を担当してきました。
一方で蒋琬は成都において、留府(留守政府)の政務を担当しており、楊儀よりは職務が楽な立場にありました。
そして年齢や官位も、楊儀は蒋琬よりも上でしたので、才能もまた彼以上であると、思い込んでいました。
そのため、諸葛亮の後継者の地位を取られてしまったことに対し、蒋琬への恨みと憤りが募っていきます。
やがて楊儀の声や顔色に怨みが表され、嘆息や舌打ちの声が、体の内から湧き上がってくるようになります。
当時の人々は、楊儀の言葉の節度のなさに恐れを抱き、言うことに耳を貸そうとはしませんでした。
楊儀の感情にも理解できる部分はありますが、世間の中で生きる上で、必要な程度にも感情を抑制できない人物だったことがわかります。
費禕が慰めるも、暴言を吐く
そんな状況下で、後軍師になった費禕だけが、以前と同じように楊儀に会い、訪問して慰めました。
これに対し、楊儀は費禕に恨みつらみをぶちまけ、さらに、次のような言葉を吐いてしまいます。
「丞相がお亡くなりになった際に、わしがもし、軍をあげて魏延についていたならば、ここまで落ち目にはならなかっただろう。
後悔先に立たずとなったわい」
処罰されて庶民に落とされる
魏延は死後、反逆者として扱われていましたので、この発言によって、楊儀は反逆者に同調している、と述べてしまったことになります。
閑職に置かれた時点では、まだ同情に値するところがあり、だから費禕も訪れていたのでしょうが、反乱の意志があることを示したのであれば、もはやそのままにしておくわけにはいかなくなります。
費禕はこの楊儀に発言について、密かに劉禅に上表しました。
この結果、235年に楊儀は解任され、庶民に落とされています。
そして漢嘉郡に流罪となりました。
これは、魏延に勝利してから1年もたっていない時期のできごとでした。
流罪となっても言動は改まらず
楊儀は配所に到着すると、またも上書して、誹謗の言葉をはきました。
この内容は記録されていませんが、過激なものだったので、蜀の朝廷は漢嘉郡に命令を下し、楊儀を逮捕させました。
すると、ここにいたって生きることに絶望したのか、楊儀は自害をして果てています。
このようにして、楊儀は自ら引き起こした舌禍によって、その身を滅ぼしてしまったのでした。
生前に功績もあったためか、妻子は罪を許され、蜀に帰還しています。
楊儀評
三国志の著者・陳寿は楊儀を次のように評しています。
「楊儀は実務の手腕によって出世し、尊重された。
しかし、その行為を観察し、品行をたどってみると、災いを招いたのは自業自得だった」
また、『季漢輔臣賛』では、次のように評されています。
「楊儀は狷介な人物で、多くの人に対して異を唱え、非難した。
平静な時には論理に従っていたが、追いつめられると人々を傷つけた。
道理を捨てれば凶事にみまわれるのは『易』に言うとおりである」
楊儀は諸葛亮に重用されたことから、有能な人物だったのは確かです。
しかし、協調すべき相手である魏延と激しく争ったり、冷遇された時期に言ってはならないことを言ったために身分を失ったりするなど、言行に難があり、このために非業の死を迎えることになりました。
魏延もまた、自尊心が強すぎたために身を滅ぼしましたが、楊儀もまた自分の有能さに自信を持ちすぎ、それゆえに性格が歪んでしまっていた様子が見受けられます。
この二人は才能の種類は違えど、似たもの同士であり、それゆえに激しく争うことになったのかもしれません。