どうして原子爆弾は広島と長崎に投下され、20万人以上の一般市民が殺害されることになったのか。
この文章では原爆開発の経緯から、日本への投下、広島と長崎が標的にされたことの理由などについて記している。
- 原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」のはじまり
- 開発体制の確立
- リトルボーイ
- ファットマン
- 目的の遷移
- ルーズベルトの死とトルーマンの大統領就任
- 原爆投下先の検討
- グルーが降伏勧告を提言
- 日本の状況
- もしもアメリカと直接交渉をしていたら
- バーンズが原爆使用を強く推奨
- スティムソンの働きかけ
- ポツダム宣言
- トルーマンの日記
- 京都への投下の反対
- トルーマンの判断
- どうして広島になったのか
- 長崎が追加される
- テニアン島から爆撃機が発進する
- トルーマンの演説
- 広島の人口の内訳
- 実態を知ったトルーマン
- 長崎への投下
- 長崎の人口と被害
- 長崎の不運
- ソ連が日本への侵攻を開始
- トルーマンが投下を中止させる
- 正当化プロパガンダの開始
- 日本の降伏
- まとめ
- トルーマンの後悔
- 日本にも同様の問題があった
原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」のはじまり
まずはじめに、原爆をアメリカが開発するに至った経緯から記していく。
第二次世界大戦がはじまった1939年ごろには、核分裂の研究によって、一発で都市を壊滅させるほどの強力な爆弾を製造することが可能である、という認識が科学者たちの間で広まっていた。
そしてアメリカに亡命していた物理学者のシラードは、ナチス・ドイツが核兵器の開発に成功し、保有することを恐れた。
シラードは、元はドイツで研究を行っていた物理学者で、1933年にナチスが台頭し、ヒトラーが独裁権を握ると、これを嫌ってアメリカに亡命していた、という経緯があった。
このため、ナチスのことを強く警戒しており、核兵器を保有するかもしれないことに強く危機感を抱いたのだった。
シラードはアメリカに亡命していた著名な物理学者・アインシュタインに名義人になってもらい、ルーズベルト大統領に書簡を送り、資金を投じて研究速度を上げ、アメリカが核兵器開発においてドイツに先んじることを勧めた。
ルーズベルトはこれに興味を抱き、委員会を設けて検討させた。
しかしこの時点では、まだ実用性のある爆弾が製造できるかどうかはわかっていなかったので、アメリカはさほど熱心ではなかった。
その後、イギリスで研究が進み、1941年には、ウランを数〜10kg使用するだけで爆弾の製造が可能である、ということが明らかになり、アメリカにも知らされた。
これを受け、1942年にルーズベルトは核兵器の開発にゴーサインを出し、「陸軍マンハッタン工兵管区」が設けられ、計画の中心地となった。
このため、原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と呼ばれることになる。
予算額は20億ドルで、現在の貨幣価値に換算すると230億ドルになる。
現代のレートで日本円に換算すると、2兆5千億円を投じた大規模なプロジェクトとなった。
開発体制の確立
マンハッタン計画の責任者となったのが、クローヴス准将だった。
クローヴスは用地の買収、ウランの濃縮やプルトニウムの生産を行う工場の建設、職員の雇用などを行い、開発環境を整備した。
全体では10万人規模の雇用が発生している。
開発のリーダーには物理学者のオッペンハイマーが就任した。
他にも多数の科学者が集められ、デュポンやゼネラル・エレクトリックなどの民間企業も参加している。
こうして体制が作られると、具体的な原子爆弾の開発が進行していった。
リトルボーイ
初期の段階では、ウラン235を使用する「リトルボーイ」、プルトニウムを使用する「シン・マン」、プルトニウム爆縮方式「ファットマン」の3種が考案されていた。
リトルボーイはウラン235を2つ、分離させた形で内蔵し、火薬を爆発させ、その衝撃によって両者をぶつけ合わすと、臨界(核分裂の連鎖状態)に達して核爆発を起こす、という単純な構造になっていた。
しかし火薬に点火すると必ず核爆発を起こしてしまい、セーフティを設けることができないので、管理にも使用にもリスクが伴った。
また、爆撃機の墜落時など、外部から強い衝撃を受けた際に、ウラン同士がぶつかって核爆発を起こす可能性もあり、安全性に大きな問題を抱えていた。
このため、リトルボーイは1つだけ製造され、広島で使用されたが、以後はこの型の原爆は開発中止となっている。
そして、ウラン235よりもプルトニウムの方が、より少量で臨界に到達して核爆発を起こせる性質を持っていたので、プルトニウムを用いるものが主流になっていった。
ファットマン
一方、シン・マンは製造の困難さが認識され、オッペンハイマーらはファットマンの開発に注力するようになる。
ファットマンはプルトニウム239を球形で内蔵し、その外側で爆発を起こし、衝撃によって圧縮(爆縮)すると、臨界に達して核爆発する、という仕組みだった。
しかし外側で火薬の爆発を起こすと、そこに近い外側のプルトニウムだけに先に圧縮が発生し、臨界に到達できず、核分裂が発生しないという問題があった。
また、圧縮が均等に行われないと、爆弾自体が崩壊してしまい、やはり核爆発は起きない、という問題も認識された。
このため、プルトニウム全体に均等に圧縮をかけるには、火薬をどこにどの程度配置すればよいのか、という研究がなされた。
これによって新しく、爆発の衝撃を計算する複雑なモデルが作られたが、当時はまだコンピュータが存在していなかったので、この計算を終えるだけでも10ヶ月を要することになる。
最終的には32個の火薬を用いるのが最適であるとの結論が出た。
そして爆縮にわずかなずれも生じさせないようにするため、ナノ秒単位の誤差もなく、起爆をコントロールできる新型雷管も開発され、多大な労力を費やして、ファットマン型の原子爆弾が完成した。
しかしリトルボーイと比べて複雑な機構であったため、人類初の核実験「トリニティ実験」が行われることになった。
これは1945年7月16日に実施され、成功し、いよいよアメリカは原爆の投下を決定することになる。
これは広島に原爆が投下される、21日前のことであった。
目的の遷移
ここからは政治的なレベルで、どのようにして日本への原爆投下が決定されたのかを追っていく。
はじめに述べた通り、原子爆弾の開発はナチス・ドイツを意識してのものであった。
しかしその後の調査によって、ナチスは原爆の開発に熱心ではなく、この点では脅威にはならないことが明らかになっていった。
勝利のために必要であるとして、強く開発を訴える人もいたが、戦況が逼迫すると、ヒトラーは短期間で実戦投入できる兵器にしか予算を出さなくなったため、原爆の開発計画は完全に頓挫していた。
原爆の開発には2年程度の期間が必要なため、それを悠長に待ってはいられなかったのである。
一方、アメリカでは1944年になると、原爆の完成が1945年の夏ごろになるだろう、という見通しが立つようになった。
このころには、ドイツの弱体化が著しくなり、1945年の前半には降伏することが予想されていた。
となると原爆の使用先は、その時期にもいまだ交戦が続いているであろう、日本にするべきではないか、との意見が強まるようになる。
そして1944年の9月に、アメリカのハイドバーグで、ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が秘密裏に会談し、ここで日本に原爆を使用することが定められた。
この時に、熱心に使用を求めたのはチャーチルだったとされる。
チャーチルはソ連の台頭を強く警戒しており、アメリカがソ連に対する優位性を確保するためには、原爆を使用する必要があり、その対象は日本になると考えていたようである。
このように、1944年にはドイツの脅威が低減し、その一方で原爆は完成間近となり、戦後にソ連が脅威となることが懸念されていた。
このため、ソ連に見せつけるために、最後に残った交戦国である日本に対し、原爆を使用するべきである、とする政治的な流れが形成されていくことになった。
ルーズベルトの死とトルーマンの大統領就任
ルーズベルトは史上初の4選を果たし、1945年の時点でも引き続き大統領を務めていた。
しかし4月12日に、脳卒中のために急死する。
このため、副大統領のトルーマンが急遽、大統領に就任した。
トルーマンはそれまで外交にも戦争にも関与しておらず、原爆の開発についても何も知らなかった。
その状況下で、第二次世界大戦の最終局面において、どのようにして戦争を終わらせるのか、という重たい課題を背負うことになったのである。
原爆投下先の検討
トルーマンは就任直後に、開発責任者のクローヴスから原爆の資料を渡されたが、これに目を通さなかった。
資料を読むのが苦手だ、というのが理由だったが、これによってクローヴスは、大統領から計画推進の許可は得られたと勝手に解釈し、具体的に日本のどの都市を狙うのか、という検討作業に入っていく。
クローヴスらの目標選定には、いかにしてこの新しく、強力な爆弾の威力を見せつけるか、ということに念頭が置かれていた。
このため、民間人を巻き込んで多数を殺傷することについては、まるで配慮されていなかった。
というよりも、むしろ積極的に巻き込みたいとすら考えていたようだ。
目標検討委員会が開催され、
・8月までに爆撃を受けないこと
・爆風によって被害を拡大できること
・大都市にある重要施設であること
が目標の条件として設定された。
この結果、京都と広島が最有力候補となった。
京都は古都であり、人口が100万を数え、都市工業地域であり、日本の知的な中心地である。
そこの住民はこの爆弾の意義を正しく理解するだろう。
広島には陸軍の重要な補給拠点があり、都市工業地域である。
そして広範囲に被害を及ぼせるだけの広さがあり、丘陵が隣接しているため、爆風が収束して被害が大きくできる。
一方で、河川が多いため焼夷弾の攻撃には適していない。
ついで、横浜と小倉が上げられた。
横浜は重要な工業都市であり、まだ空襲されていないこと、小倉は日本最大の兵器廠(管理所)があり、周囲に都市工業施設があること、などが理由になっている。
そして最後に新潟も上げられているが、これは新潟が重要な物資の積み出し港になっているから、という理由であった。
天皇が住む宮城はどうか、という声も上がったが、戦略的な価値は低い、という判断になった。
その後、横浜が空襲されたことによって候補からはずれ、京都、広島、小倉、新潟が残ることになった。
そして実行部隊「第509混成群団」が編成され、原爆と同じ形を備えた模擬弾を使用して、投下訓練を何十回も繰り返した。
グルーが降伏勧告を提言
こうして原爆投下の準備が着々と進められる中、国務次官のグルーはトルーマンに対し、日本に対して早期に声明を出し、降伏を促すことを勧めていた。
グルーは1931年から1941年まで、長きに渡って駐日大使を務めた経験があり、日本の社会や文化についての研究を行っており、当時としては随一の知日派の人物だった。
グルーはかねてより、天皇は戦後の日本社会を安定させる上で不可欠の存在であると考えており、そのように上院でも証言していた。
そして5月28日にトルーマンに対し、日本に降伏を呼びかける場合には、天皇制を残すことを認める文言を含めた方がよい、と進言した。
トルーマンは原則的にこれに同意したものの、軍事的な理由によって今すぐには行わない、と返答した。
これは日本への原爆投下計画が進んでいたため、それを終わるまでは降伏勧告をするのは望ましくない、という意味だと考えられる。
グルーは原爆の投下には反対だったようで、その後も6月16日にトルーマンに対し、日本に向けて早期声明を出すことを求めた。
しかしトルーマンは予定されている三巨頭会談(ポツダム会談)までは声明を待つと返答し、グルーの望むとおりにアメリカ政府が動くことはなかった。
もしもこの5〜6月の時点で、日本に天皇制を残すことを条件に入れて降伏勧告をしていれば、7月には降伏していただろう、というのがグルーの見立てであった。
そうなっていれば、日本に原爆は投下されていなかったことになる。
日本の状況
このグルーの見立ては正しく、日本政府も6月ごろには戦争の継続が不可能になっていることを認識していた。
3月10日の東京大空襲を始めとして、各地方の大都市が空襲によって大きな被害を受け、生産力や輸送力が大きく低下していた。
そして5月8日にはドイツが連合国に降伏し、日本は同盟国を失い、国際的に孤立した。
3月26日から沖縄戦が行われていたが、6月23日には敗北が確実となり、司令官の牛島中将が自決した。
この時期まで、日本は沖縄で連合軍に大きな打撃を与え、それによって講和条件を有利にできないか、と考えていたが、そのもくろみは潰えた。
沖縄の劣勢を受け、本土決戦の計画が持ち上がっていたが、昭和天皇は、すでに兵器どころかスコップを作る資材ですらも不足していること、本土の部隊よりも充実した物資を備えているはずの、中国に展開している部隊でも弾薬が不足していること、などを知る。
これによって本土決戦など不可能であると認識し、戦争を終結させるための動きを強めていった。
この時期、日本はアメリカと直接交渉をせず、中立国であるソ連に和平の仲介を依頼していた。
しかし、ソ連は日ソ中立条約を締結していたものの、ヤルタ会談(2月)の際にアメリカと秘密協定を締結し、ドイツとの戦いが終結したら、3ヶ月後には対日参戦することを約束していた。
このため、そもそも実るはずのない交渉であり、日本政府は貴重な時間を浪費してしまうことになる。
ソ連は対日参戦をして日本の領土を奪うことを望んでいたため、日本を適当にあしらい、時間稼ぎをするという態度に終始する。
折衝の担当者は、ソ連の態度があまりに冷淡だったので、脈がなさそうだと報告していたものの、他にあてのない日本は、不毛な交渉を続けたのだった。
もしもアメリカと直接交渉をしていたら
この時期、もしも日本が公式に声明を出し、和平を望んでいることをアメリカに表明していたら、アメリカ政府の対応が変更されていた可能性はあるだろう。
すでに自ら和平を望んでいるとわかっている相手に原爆を落とせば、国際的な批判にさらされることは避けられないからである。
(7月中に、日本はソ連を通じて和平交渉を打診していることを、アメリカにリークしてはいたらしい)
しかし、当時の日本陸軍は、まだアメリカと正面きって大規模な決戦をしていなかったので、海軍は敗れても陸軍は敗れていない、という態度を取っていた。
このため、おおっぴらにアメリカに対して和平を望むと表明しようとすると、猛烈に反発した可能性が高く、実行は難しかったと考えられる。
この時期、陸軍大臣や海軍大臣は現役の武官が就任しており、その協力がなければ内閣が運営できない制度になっていた。
閣僚が一人でも辞任すると、閣内不一致ということで、総辞職しなければならなかったからである。
なので陸軍が強く反発するようなことは、実行できなかった。
このような事情によって、日本の和平への働きかけにはまったく効果がなく、情勢を変化させることにはつながらなかった。
バーンズが原爆使用を強く推奨
7月3日になると、アメリカの国務長官にバーンズが就任した。
バーンズはチャーチルと同じく、戦後にソ連が脅威になることを危惧していた人物で、ソ連を牽制するために日本で原爆を使用した方がよい、と考えていた。
7月6日、まだ日本に早期降伏を促すことをあきらめていなかったグルーは、バーンズに対し、ポツダム宣言に天皇制を残す条項を含めるようにと働きかけを行った。
それが含まれていれば、日本がポツダム宣言を受諾する可能性が高くなるからだった。
しかしバーンズは、原爆の力によって日本を降伏させることができれば、ソ連の参戦が必要なくなり、戦後にソ連の力を抑えることにもつながる、とも考えており、これを受け入れることはなかった。
結局のところ、トルーマンはバーンズの意見に賛成し、このため、原爆が投下されることがほぼ決定された。
スティムソンの働きかけ
一方、アメリカの陸軍省長官であるスティムソンもまた、グルーと同じく、日本への原爆投下には反対の立場を取っていた。
スティムソンは戦時中の、陸軍の予算獲得に活躍した人物で、マンハッタン計画のこともよく知る立場にあった。
スティムソンはかねてより、日本への空襲によって大勢の一般市民が殺戮されていたが、これがアメリカへの批判につながることを恐れていた。
場合によっては、ヒトラー以上に批判されるのではないかとも考えていた。
このため、原爆投下によってさらに一般市民を殺戮することには、否定的だったのである。
スティムソンはポツダム会談の団員から外されていたものの、別便を立ててポツダムまで行き、トルーマンに面会した。
そして天皇制を残す条項を宣言に入れるよう、トルーマンを説得しようとしたが、トルーマンは頑なに受け入れなかった。
この時にトルーマンはチャーチルから、ハイドバーグ条約(日本への原爆投下)の履行を迫られており、その影響もあったと考えられる。
トルーマンはスティムソンに「気に入らなければ荷物をまとめて帰るといい」と言い放ったともされており、これによってスティムソンの活動も失敗に終わった。
こうしてポツダム宣言によって、日本が原爆投下前に降伏する可能性が閉ざされたのであった。
ポツダム宣言
7月17日から、ベルリン郊外にあるポツダムにおいて、トルーマン、チャーチル、スターリンの三首脳が集まり、二次大戦の戦後処理が話し合われた。
ちなみに、この前日にトリニティ実験が成功しており、トルーマンはその報告を聞いている。
話し合いの末、7月26日になると、日本に降伏を促す宣言がなされた。
なお、出席していないが、中国の蒋介石も宣言には加わっており、一方でスターリンは名を連ねていない。
この時点ではまだ、ソ連は中立国だったからだ。
ポツダム宣言では、
・日本の領土は本州・北海道・九州・四国・諸島群に限られる
・日本人を奴隷化、滅亡させようとするものではない
・日本軍は武装解除すれば家に戻って平和に暮らせる
・将来的には国際貿易に復帰できる
などの、降伏後の条件が提示がされたが、その中でグルーやスティムソンが求めた、天皇制を残すことについては、やはり触れられなかった。
このため、日本政府はこの宣言に反応しないことにした。
グルーが想定した通り、日本政府は天皇制が保証されなければ、降伏はできないという考えだったからだ。
しかし鈴木貫太郎首相がコメントを求められた際に「黙殺する(ノーコメント)」と発言したことが、連合国からは「拒否する」と表明したと受け取られることになる。
この首相の発言が原因で原爆が投下されたのだとする説もあるが、宣言が出される前日にアメリカは原爆投下を決定しており、この発言と直接の関係はない。
アメリカはあらかじめ日本が宣言を拒否してくることを織り込んで、計画を立てていたからだ。
トルーマンの日記
ポツダム宣言以前に原爆投下が決定されていたことを示す証拠として、トルーマンの日記がある。
日付は7月25日で、宣言が出される前日のことである。
その一部を紹介する。
「この兵器(原爆)は今から8月10日の間に、日本に対して使用する予定となっている。
私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵士や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標にしないようにと言った。
日本が野蛮、冷酷、無慈悲であり、狂信的であっても、世界の人々の幸福を促進するリーダーであるわれわれが、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかない。この点で私とスティムソン氏は完全に一致している。目標は純粋に軍事物に限られる。
その上、警告宣言(ポツダム宣言)を発行し、降伏を勧め、生命を無駄にしないようにと呼びかけるつもりだ。彼らがそれでも降伏しないことはわかっている。しかしチャンスは与えるつもりだ」
この中の「彼らがそれでも降伏しないことはわかっている」という言葉から、天皇制を残すことを条件に入れなかったので、日本がポツダム宣言を受け入れないと理解していたことがわかる。
一方で注目したいのは、「スティムソン氏に、使用に際しては軍事目標、兵士や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標にしないようにと言った」という部分だ。
これは広島や長崎で起きたことと明らかに矛盾しており、トルーマン自身は一般市民にまで大きな被害を出すことは想定していなかったのである。
どうしてこのようなことが起きたのか。
京都への投下の反対
これ以前のこと、クローヴス准将は目標検討委員会の提言を受け、京都を原爆投下の標的とするべきだと考え、トルーマンに進言した。
これを聞いたスティムソンは、強く反対した。
スティムソンは新婚旅行を含めて京都に二度行ったことがあり、一般市民が多数在住していることを、実見して知っていた。
そして前述の通り、アメリカ軍が一般市民を殺戮することで、批判を浴びることを恐れてもいた。
また、京都を原爆によって破壊すると、日本人の反米感情が高まり、戦後に友好関係を築くことが難しくなるとトルーマンに告げ、京都への投下には強く反対の意向を示した。
トルーマンもこの意見に賛同し、京都は対象からはずされることになった。
この経緯によって、トルーマンは日記に「この恐るべき爆弾を日本の古都(京都)や新都(東京)に対して落とすわけにはいかない。この点で私とスティムソン氏は完全に一致している」と記すことになったのだった。
トルーマンの判断
ここまで述べてきたように、トルーマンはソ連への牽制のために原爆を使うべきだとする国務長官バーンズやチャーチルの意見に賛同していた。
一方で、その対象に一般市民を含むべきではないとする、陸軍省長官スティムソンの意見にも賛成していた。
そして国務次官グルーが唱える天皇制を残すことについては、原爆を投下した後で日本に提示し、降伏させる、という考えだった。
それぞれの意見を取り入れつつ、トルーマンの方針は、ソ連への牽制のために原爆を使用するが、一般市民はなるべく巻き込まない、使用後に日本を降伏させる、というものになっていたのである。
どうして広島になったのか
さて、ではどうして35万もの人口があり、多くの一般市民が巻き込まれることが必至な広島に、原爆が投下されることになったのか。
これにはクローヴスの広島に関する報告が影響している。
クローヴスは京都に投下するプランが却下された後、広島について次のように報告している。
「広島には日本でも有数の港があり、軍需物資の供給基地など、軍の大規模施設が集まっている陸軍都市である」
これによってトルーマンに、広島は一般市民はほとんどおらず、そちらに大きな被害を出すことはないと判断させた。
トルーマンは広島のことを詳しく知らず、またポツダム会談の最中だったので多忙であり、調べる余裕もなかったので、これを承認したようである。
つまるところ、クローヴスは最優先候補であった京都が却下されてしまったので、これと並ぶ広島については、多数の一般市民が住んでいることには触れず、軍事施設が多いとだけを伝えることで、トルーマンの誤解を誘ったのであろう。
そして7月25日には、クローヴスが起草した原爆投下指令が発令されてしまい、日本の一般市民を多数犠牲とすることが確実な、原爆の投下が実行されることになった。
長崎が追加される
この時の投下指令には、外された京都にかわり、長崎が目標として追加されている。
これについては、目標を検討していた者たちの間で反対意見が多く、その理由は以下のようなものだった。
・長崎は目標とするには小さく、原爆の威力の測定には適していない
・都市は東西の二つの山に挟まれており、細長く、爆風が南北に拡散するので爆発効果が発揮されにくい
・長崎の造船所では大勢の捕虜が働いている
こうして議論が巻き起こったが、結局は長崎が追加されることに決定され、最終的に「広島、小倉、長崎、新潟」の四都市が原爆の標的とされた。
テニアン島から爆撃機が発進する
かねてより、原爆を投下するための特務部隊「第509混成群団」が、北マリアナ諸島にあるテニアン島に滞在し、投下訓練を繰り返していた。
そして8月6日に、実際に原爆が投下されると決まった。
6日の日本時間1時45分ごろ、部隊司令ティベッツ大佐が自ら操縦し、「リトルボーイ」を積み込んだB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が離陸した。
攻撃目標は一つだけではなく、第一が広島、第二が小倉、第三が長崎となっていた。
原爆の投下に際しては、目標地点を誤らないようにするため、対象を目視してから実行することが義務づけられており、高高度から地上を直接見れる、雲が出ていない状態でないと投下できなかった。
このため、順位をつけつつ複数の目標を設定し、その中で天候のよい都市に投下されることになっていたのである。
こういった事情により、天候を調べるために気象観測機がエノラ・ゲイより先に出発していた。
そして広島はこの日、高気圧に覆われて晴れていた。
雲の量はどの高度においても、30%程度で、ほぼ快晴だったと言える。
エノラ・ゲイは8時15分、高度9,500メートルから目標地点のT字型の橋(相生橋)に向かって投下し、直ちに反転して離脱した。
そして投下されてから43秒後、8時16分ちょうどに、リトルボーイは強烈な閃光を放って爆発した。
この結果、広島はクローヴスらが狙った通り、市街地が壊滅的な被害を受け、1945年の年末までに、14万人が亡くなったと推計されている。
もちろんそこには、トルーマンが標的にしないとしていた、女性や子どもも多数含まれている。
トルーマンの演説
トルーマンはこの時、ポツダム会談からの帰路にあり、大西洋の船中で演説を行った。
そして「アメリカの飛行機が日本の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した」と述べた。
この発言からして、トルーマンは広島は軍事拠点だと思いこんでいたことがうかがえる。
広島の人口の内訳
当時の広島には、陸軍第五師団の司令部が存在しており、軍の駐屯地としての側面を持っていたのは事実である。
しかし被爆当時の人口35万人のうち、軍関係者は4万人、一般市民が29万人、市外から所用のために訪れていた者が2万人であり、軍関係者の割合はわずかに11%程度だった。
この都市全体を「日本の最重要陸軍基地」だったと主張するのは、明らかに無理があるだろう。
トルーマンの「女性や子どもを目標としない」という日記の内容とも、まったく噛み合っていない。
これによって、大統領であるトルーマンですら認識していない状態で、原爆の開発に携わった軍関係者たちの思惑によって、一般市民を多数巻き込む形で原爆の投下がなされたのだ、と結論づけることができる。
ちなみに、広島には太平洋戦争の開戦前から滞在していたアメリカ人が、帰国できずに残っていたが、この人々も原爆に巻き込まれたようである。
実態を知ったトルーマン
トルーマンはその後、8月8日にスティムソンから広島の被害状況がわかる写真を見せられ、愕然としたと言われる。
トルーマンの思惑とは異なる形で、原爆が投下されたことが明らかになったからだ。
しかしこの時にはすでに、2発目の原爆投下が進行していた。
長崎への投下
8月9日にも、再度テニアン島から、原爆を投下するための爆撃機が発進した。
爆撃機の名は「ボックス・カー」といい、実験に成功したばかりのプルトニウム爆縮型原爆「ファットマン」が積み込まれる。
2時50分ごろに出発し、第一目標が小倉、第二が長崎と設定されていた。
この日、小倉は晴れていたが、上空は煙に覆われており、地上を目視することはできなかった。
これは工場の排煙や、近隣都市の空襲の影響だったとされている。
また、八幡製鉄所の従業員が、原爆投下を警戒してドラム缶にコールタールを入れて火をつけ、煙幕をはった、との証言もある。
このため、ボックス・カーは3度爆撃コースを回るが、目標地点を視認することはできなかったので、小倉をあきらめて長崎に向かうことにした。
この日、長崎の上空は80%以上が雲に覆われており、こちらも投下は難しい状況だった。
しかしボックス・カーはレーダーを使って接近し、そしてわずかに雲の切れ目があることを発見する。
そこから地上を目視してファットマンを投下し、エノラ・ゲイと同じく、すぐに急旋回をして離脱した。
ファットマンは11時2分、松山町にあったテニスコートの500メートル上空で爆発し、激しい閃光を放ち、猛烈な爆風と熱が長崎を襲った。
長崎の人口と被害
この時、長崎の人口は24万人と推計されている。
そのうちの7万4千人が死亡した。
死傷者を含むと、15万人にものぼる被害が出た。
この中には、三菱造船所で働かされていたアメリカ人の捕虜も含まれる。
長崎の不運
このように、長崎は京都が候補から外されたことで代わりに目標に組み込まれ、当日は小倉が投下できない状況だったことから、標的にされたことがわかる。
また、爆撃機が雲のわずかな切れ目を発見しなければ、この日は投下されなかったわけで、いくつもの不運に見舞われた結果、起きたことだったと言える。
ソ連が日本への侵攻を開始
この日はソ連が日ソ中立条約を一方的に破り、日本への攻撃を開始した日でもあった。
これによってソ連を仲介役として連合国と講和を結ぶことが不可能となり、昭和天皇と日本政府は、もはやポツダム宣言を受諾するしかないと判断することになる。
トルーマンが投下を中止させる
そして8月10日には、広島の惨状を知ったトルーマンが、これ以上の原爆の投下を中止するようにと命令を出した。
この時に「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは、考えただけでも恐ろしい」と閣僚たちの前で発言している。
また、友人に送った手紙の中で「個人的には、一国の指導者の強情のために、集団を全滅させる必要があったのか、後悔している」と述べており、広島や長崎に原爆が投下され、多数の一般市民を死傷させたことを悔やむ様子が見て取れる。
正当化プロパガンダの開始
一方でトルーマンは、表向きは原爆投下の正当化を図ることになる。
背景の事実がどうあれ、大統領である自らの名前で、アメリカ政府が原爆の投下を実施してしまった以上、これを肯定できる理由を述べたて、強調していくことしか、トルーマンにはできなくなっていたのであった。
トルーマンは長崎への投下の後で、「戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ兵の命を救うために原爆を投下した」と主張し、世論の操作を行った。
このために、「日本本土への上陸作戦を実行すれば、100万のアメリカ兵の命が失われていた。これを防ぐために原爆を落として日本を降伏させたのだ」とする理由が後付けされたのだった。
アメリカ兵100万の命を救うためには、日本の一般市民を数十万人殺害しても仕方なかったのだ、と主張し、アメリカ人と国際世論を納得させにかかったのである。
実際のところ、アメリカ軍は日本への上陸作戦を行うと、最終的に20〜40万程度は死傷者が出るのではないか、と予測していたが、これまで述べてきた通り、これを実行するまでもなく、日本を降伏させることができたので、この主張は事実ではない。
また、ニューヨークタイムスの記者ローレンスと、マンハッタン計画に関与したハーバード大学長コナントによって、虚偽がアメリカに振りまかれた。
その内容は以下のようなものだった。
・事前に警告し、その上で軍事基地を破壊した
・その影響で日本はすぐに降伏した
・原爆はアメリカ人100万人と、多くの日本人の命を救った
・原爆による放射能の影響はほとんどない
実際には、警告なしで原爆は投下された。
日本が降伏したのは、ソ連の参戦が直接の原因であり、原爆ではない。
過大な推定に基づく、100万人が死傷するという上陸作戦は、実施する必要はなかった。
放射能の影響で、その後、数十年にも渡って被爆者は苦しめられた。
すべてが嘘だったが、ほとんどのアメリカ人はこれを信じ、現在でも多くの人が、いまだ原爆を投下したことを肯定している。
日本の降伏
昭和天皇と閣僚たちは、8月10日に御前会議を開き、ポツダム宣言を受諾する方向で話がまとまりつつあった。
しかし天皇の地位がどうなるかが不明だったので、これを問い合わせるべきだとする意見が出て紛糾し、実施されることになった。
バーンズはこの問い合わせに対し、「天皇と日本政府は連合国最高司令官に従属する」と返答した。
「従属する」は「subject to」という文言だったが、この解釈をめぐってまたも議論が起き、「隷属」という意味なら問題だとされ、もう一度確認を取るべきだとする意見が出て、受諾が決定されなかった。
このため、8月14日に再び御前会議が開かれ、昭和天皇自身が、自分の地位に確たる保証がなくともポツダム宣言を受諾する、といった旨のことを発言し、ようやく完全に降伏すると決まった。
このようにして、グルーが予測したとおり、当時の日本政府が降伏するには、戦後の天皇の地位への保証が必要だった。
それをポツダム宣言から外したことは、原爆投下のための時間を作るための方策だったことが、改めて明らかになった。
ともあれ、こうして太平洋戦争は終結した。
原爆投下から間もなく降伏したことが、戦後にアメリカが、原爆の投下があったから日本を降伏させることができたのだ、との主張をしやすくなる要因になっているのだと考えられる。
しかしそれ以前から日本は和平を考えており、ソ連の参戦が決定打になったのであって、原爆は降伏に直接の影響を及ぼしてはいない。
まとめ
これまで述べてきたように、トルーマンの原爆投下の方針は、ソ連への力の誇示が主目的であった。
そして軍事的な対象を目的とし、日本の一般市民を殺戮するつもりはなかった。
この方針には、バーンズとチャーチルが影響を及ぼしている。
しかしクローヴスら、開発関係者たちは、原爆の威力を最大限に発揮することを目的とし、そのためには広範囲を破壊し、一般市民を巻き込むことも辞さないと考えていた。
そして京都で反対を受けた後は、大統領を欺くことによって、自分たちの目的を成し遂げた。
このために広島と長崎に原爆が投下され、数十万の一般市民が死傷することになったのである。
トルーマンの後悔
トルーマンはその後も、公の席では原爆投下を肯定し続けた。
しかし、朝鮮戦争の際に、苦戦していたマッカーサーが原爆投下を希望すると、「原爆は恐ろしい兵器であり、侵略に関係ない無実の人々や、女性、子どもに対して使用するべきではない」と記者会見で述べている。
このように、トルーマン自身の考えは、太平洋戦争中も、朝鮮戦争中も変わらなかったようだ。
そしてトルーマンはマッカーサーを解任し、朝鮮半島では原爆を使用しなかった。
トルーマンは大統領を退任した後、1962年にある大学教授から「大統領として悔いていることはありますか」と質問されると「原爆投下の悪夢にうなされ続けている」と答えたという。
大統領がこのような考えでありながら、アメリカは日本の一般市民を巻き込む形で原爆を投下したわけだが、その体制のありようには大きな問題があったのだと、指摘していくべきだろう。
そして、いまだ各国は核兵器を保有し続けてているのだから、これは過去だけの話ではなく、現代の課題としても認識されるべきだろう。
日本にも同様の問題があった
一方で日本もまた、天皇や政府の制御がきかない形で軍部が暴走し、中国や東南アジアでむやみと戦線が広げられていったという経緯があった。
これがアメリカを刺激して開戦にいたり、敗北が導かれたわけなのだから、軍部の暴走を許さないようにすることこそが重要なのだと言える。
軍部が力を持つと、やがて政府を軽んじるようになり、結果が出てしまえば、ついてこざるを得なくなるだろうと、たかをくくる傾向があるのだと思われる。