ソクラテスはどうして死刑になったのか

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古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、死刑に処されてその生涯を終えた。

罪を問われた理由は

・アテネの国家が信じる神々とは、異なる神を信じた
・若者を堕落させた

という二つの点だった。

私はこれを知って、この程度のことで、どうして死刑を求刑されたのだろうかと疑問に感じた。

通常、死刑となるのは殺人や、国家に対する反逆などの罪によるものだろうけれど、ソクラテスのそれは仮に事実だったとしても、死刑になるほどのものだとは思われない。
せいぜい、追放刑くらいが妥当だろう。

しかし実際にソクラテスは死刑になってしまった。
その背景には何があったのかと調べてみたところ、どうやら当時のアテネの政治的な状況が、ソクラテスを死に追いやったらしいことがわかってきた。

ソクラテスの頭像

【ソクラテスの頭像】

ゆらいだ民主制

ソクラテスは紀元前399年に訴訟を起こされたのだが、それに先立つ紀元前404年に、アテネでは重大な政変が発生していた。

アテネと言えば、民主制が発祥した都市国家として知られているが、その体制はこの時期、大きく揺さぶられていた。

アテネはライバルである、有力な都市国家のスパルタと、ギリシャ世界の覇権をめぐり、紀元前431〜404年の長きに渡り戦っていた。
これをペロポネソス戦争という。
しかしこの戦いは最終的に、アテネの敗北に終わった。

そして戦争終結の直後から、勝利したスパルタはアテネの政治に影響を及ぼし、民主制から寡頭かとう制に政体を変更させる。
寡頭制とは、一部の限られた者だけに権力を集中させる制度のことだ。
この時に、スパルタに協力したアテネ市民三十名が寡頭制の担当者になったので、これは「三十人政権」と呼ばれる。

しかしアテネは元来が民主制で、市民なら誰でも参政権を持つ体制だったのだから、その権利が剥奪される寡頭制に対しては、当然のことながら、強い反発が生じた。

これに対し、三十人政権の中心人物だったクリティアスは恐怖政治をしき、反抗する市民たちを殺害し、財産を奪い取るという暴挙に出た。
それに加え、政権に参画していた、穏健派のテラメネスをも殺害してしまう。
これによって、三十人政権は多くの市民からのさらなる反発を招き、やがて彼らを倒そうとする動きが発生することになる。

ソクラテスの弟子

このクリティアスは、ソクラテスの弟子だった。
ソクラテスは弟子の暴挙を目の当たりにし「牛の数を減らし、質を悪化させた牛飼いだ」と皮肉を述べた。

相手が師匠だったので、クリティアスはさすがに粛清まではしなかったが、ソクラテスに対し、三十才以下の若者との会話を禁じる、という措置に出る。
若者の教育に熱心だったソクラテスに対しては、これが一番の痛手になるだろうと考えたのかもしれない。

このことから、ソクラテスが弟子の行いをまったく評価していなかったことは明らかだ。
しかしソクラテスの弟子が暴君になったことは事実として残り、ソクラテスは若者に悪い影響を及ぼしていたのではないかと、他の市民たちから疑われる事態になってしまったのだった。

内戦の発生と長期化

こうして重大な政変が起きた翌年の、紀元前403年には、ついには内戦が発生することになる。

民主制の復活を掲げるトラシュブロスが挙兵し、要塞を抑えると、そこから進軍を開始した。
そしてペイライエウス港で激しい戦いとなり、ここで三十人政権を率いていたクリティアスが戦死する。
このため、敗北した三十人政権の残党は、エレシウスに撤退した。
エレシウスはアテネに近い、小さな都市だ。

しかし三千人ほどの、三十人政権の支持者たちがなおも戦いを続けたので、内戦は収まらなかった。
それに加え、彼らの背後にいたスパルタは、パウサニアス王が率いる援軍を送り込み、三十人政権を支援した。

このため、トラシュブロス率いる民主派は苦戦をしいられ、戦いは長期化していった。
トラシュブロスは市民権を持たない外国人や、奴隷にまで参戦を求めたというほどで、戦力不足に悩まされていたことがうかがえる。

一方で、パウサニアス王は民主派と三十人政権の間をとりもち、内戦の終結に向けての働きかけを行うようになった。
これはアテネの窮状を哀れんだためだ、と言われている。

一方で、ペロポネソス戦争で活躍し、三十人政権の樹立を働きかけたスパルタの将軍・リュサンドロスという人物がいた。
パウサニアス王はこのリュサンドロスと仲が悪く、このために彼の影響下にある三十人政権を潰し、民主制に戻そうとしたのだという説もある。

ともあれ、この仲介によって事態はいくらか改善されたが、なかなか和解の条件がまとまらなかった。

これにより、内戦は紀元前401年まで続き、それからようやく完全に終結し、アテネ市民の分裂がおさまることになる。

ソクラテスへの訴訟

しかし市民同士で殺し合ったのだし、民主制を壊そうとしたクリティアスらを、支持した市民もたくさんいたのだから、民主制に戻ったからと言って、それですぐに政情が落ち着くはずはなかった。

事実、三十人政権の中心人物を除き、味方しただけの者には大赦を与える、というのが和解の条件だったのだが、実際には別に理由をつけられ、告訴されるものが相次いだという。

それがソクラテスが訴訟を起こされる2年前の事情であり、だとすれば、三十人政権の中心人物を弟子に持っていたソクラテスもまた、排除の対象になったとしても、おかしくなかったのである。

ソクラテスはアテネという国家が信じる神々を信じず、若者に悪影響を与えた、という罪で告訴された。
これは言い換えると、アテネという国家、民主制を軽視し、若者にそれを覆させるような悪影響を及ぼしたのではないか、と疑われたのだ。
恐怖政治を行ったクリティアスの師を、そのままにしておくのは危険なのではないか、とみなされたのだろう。

それこそが、ソクラテスがよくわからない理由で死刑にされてしまったことの真相だと考えると、ずいぶんとすっきりする。

民主制に戻ったばかりの不安定な状況下において、人々の心も不安定になっていた。
このため、このころのアテネは、ほとんど政治と関わりを持たずに生きてきて、知恵の探求と、無償の教育をライフワークとする70才の老人ですらも、許容できるだけの余裕を失っていた。

ゆえにソクラテスは、アテネという国家によって、無実だったのに殺害されたのであろう。

逃げることもできたがしなかった

付け加えておくと、ソクラテスは逃れることもできたが、意図的にそうせず、死刑を自ら受け入れた。

当時のアテネの牢獄の管理はいい加減なもので、担当の役人にいくらか握らせれば、簡単に逃げられたのだそうだ。
また、牢獄の役人たちは無実の罪に問われたソクラテスに同情的で、わざと鍵をはずしていた、という話もある。

このような話から見るに、ソクラテスは死刑になるほどのことはしていない、と考えるアテネ市民が少なからずいたようだ。
ソクラテスの妻も「無実の罪で死刑になるなんて」と嘆いたという。
(皮肉屋のソクラテスは「なら僕が、本当に罪を犯して死ぬ方がよかったのかい?」とたずねたそうだ)

そして弟子たちは、ソクラテスが逃亡できるようにと、具体的に準備まで進めた。
ギリシャ世界は小規模な都市国家が各地にあったので、逃亡しようと思えば、行き先を見つけるのは難しくない。
しかしソクラテスは、それを受け入れなかった。

ソクラテスは「もしも自分が逃げれば、国家の法を破壊した者と見なされるようになり、裁判の結果が正しいことになる」と弟子に述べた。

誤った判断によるものだったとしても、すでに国家によって、ソクラテスに対する死刑判決は降りてしまった。
それに逆らって逃げると、ソクラテスは間違っているはずの裁判の結果が正しいものだと、承認してしまうことになる。

告発の内容は、「ソクラテスはアテネという国家が信じる神を信じていない」というものだが、これは「アテネの国法を軽視している」とも読み替えられる。
実際にはそんなことはなかったが、この判決を拒絶して逃亡すると、「ソクラテスは国法を破るような人間である。だから判決は正しかったのだ」と、自ら証明することになってしまう。
そんなパラドックスの中に、ソクラテスは置かれていた。

なのでソクラテスは、理不尽な判決を自ら受け入れる行動を取ることで、逆に裁判が誤っていたことを証明し、告発する道を選んだのだ。

ソクラテスが裁判で訴えられた通り、アテネという国家を信じていない人間であれば、死刑判決を無視して逃亡するはずだ。
しかしあえて死刑を受け入れることで、アテネという国家に忠実であることを、ソクラテスは証明できるのである。

国家が理不尽な裁定を下し、拒否する選択肢があったにも関わらず、従容として受け入れる。これ以上に、国家に対する忠実さを証明する方法はないだろう。

こうしてソクラテスが死刑を受け入れたことで、本来は罪なき者、国法を自らの命をかけて遵守した者を、アテネという国家は無残に殺害したことになった。

このように、ソクラテスは自ら死ぬことで、国家とは、法とは、裁判とはどうあるべきものなのか、人々に考えさせる道を選んだのだ。

その影響はやがて現れ、ソクラテスを無実の罪で訴え出た詩人は、逆に自分が死刑に処されることになったという。
この事態からは、ソクラテスが無理のある死刑を受け入れたことで、ソクラテスへの判決は間違いだったと気づく市民が多かったことが表されている。

自らの死ですらも、人々への啓発に用いたことで、ソクラテスは偉大な哲学者・教育者として、その存在を現代にまで記憶されることになった。
政治などに、ソクラテスは負けなかったのである。