孫権ものし上がる
一方、孫権は彼らとは違い、父と兄が作った勢力を引き継いだ、おぼっちゃんでした。
【孫権 君主としては有能だけど、戦いは苦手だった】
父の孫堅が無名からのし上がって基盤を作り、兄の孫策が天才ぶりを発揮して、揚州に一大勢力を作り上げます。
孫権はそれにのっかった人でしたが、父や兄が集めた優秀な人材の補佐を受けて、揚州を無難に統治しています。
そして曹操に味方したり、劉備に味方したりと、うまく立ち回って勢力を伸ばしました。
自身が戦場に出て戦うと、たいていは負けていましたが、総帥としての器量はあり、呉を着実に成長させました。
ですがやっぱり地味なので、三国の中では脇役です。
三国志の前半は曹操と劉備のライバル物語で、そこに脇から孫権が手を出していた、とみておくと、だいたいあっています。
三国の成立
北を制した曹操は、南の荊州に攻めこみますが、そこで劉備と孫権の激しい抵抗を受けました。
荊州は豊かな上に、中国の南中央部をおさえる広大な土地でしたので、ここを曹操が支配すれば、天下統一は実現したも同然でした。
なので、劉備と孫権たちは、団結して曹操に抵抗します。
孫権は曹操と戦おうかどうしようか、最初は迷っていたのですが、諸葛亮や魯粛・周瑜といった主戦派の意見を採用し、開戦を決断しました。
こうして曹操は208年に赤壁で劉備と孫権の連合軍と戦いますが、大敗を喫して後退します。
赤壁は長江ぞいにあり、水軍を活用して戦う必要があったのですが、曹操はそれまでに水軍を率いた経験がなく、なれている孫権軍に翻弄されました。
その上、曹操は北方の兵士を多く連れていましたが、彼らは荊州の風土に合わず、疫病にかかってバタバタと倒れてしまいました。
このために曹操は撤退せざるを得なくなり、南方は劉備と孫権に取られることになります。
劉備はその後、荊州南部と益州を支配して勢力を拡大し、もはや曹操にも、簡単には倒せない相手になります。
孫権も揚州に荊州の一部を加え、こちらも討伐が難しくなります。
この結果として、魏・蜀・呉の三国が並び立つことになったのでした。
荊州争奪戦
荊州は北を曹操が、南東を孫権が、南西を劉備が支配し、三つの勢力が入り混じった状況になります。
しばし均衡が保たれていましたが、219年になると、劉備が益州北部の漢中で、曹操との直接対決に勝利し、情勢が動きます。
荊州の劉備領の長官だった関羽は、曹操軍が動揺している機会を活かすため、北上を開始します。
そして樊城という曹操領の拠点を攻め、落城寸前まで追いつめました。
危機に陥った曹操は孫権に、「荊州の南は好きにしていいから関羽を攻撃してくれ」と同盟を持ちかけます。
孫権はこれに乗り、関羽が統治していた土地を奪い取りました。
基盤を失った関羽は撤退せざるを得なくなり、やがて孫権軍に捕らえられ、処刑されます。
この結果、曹操は大陸の北部一帯と荊州の北部、孫権は揚州と荊州南部と交州、劉備は益州のみを支配することとなり、三国の勢力圏が、ほぼ定まっています。
【三国の区分 北が曹操 南東が孫権 南西が劉備】
魏の建国
一番最初に正式に建国されたのは、魏でした。
曹操は220年に亡くなり、子の曹丕が後を継ぎました。
すると曹丕はすぐに、献帝に皇位を譲るようにと脅迫します。
献帝にはなんら実権がなかったので、言いなりになるしかありませんでした。
こうして後漢が滅び、かわって魏王朝が成立します。
蜀の建国
すると、これを知った劉備は献帝にかわって漢を建国すると宣言し、皇帝に即位しました。
漢王朝を引き継いで、曹丕を倒して中国全土の支配者に返り咲く。
それが劉備の掲げた大義だったのです。
このため、蜀こそが三国の中で正統な王朝なのだ、とする蜀漢正統論、という歴史観が存在しています。
劉備の領土となった益州は、もともと蜀と呼ばれた地域でしたので、この国は一般に「蜀」、または「蜀漢」と呼ばれています。
ちなみに「魏」は古代中国に存在した国の名前で、「呉」も同様です。
呉の建国
その後、孫権は魏と戦いつつ様子見をしていましたが、229年に皇帝に即位し、呉を建国しました。
孫権は漢王朝の血を引いていませんし、勢力も二番手で、皇帝になるための根拠が乏しくなっています。
このため、『三国志』においても、孫権は皇帝としての扱いは受けておらず、名前はそのまま「孫権」と呼び捨てで書かれ、死んだ場所も記録されないなど、はっきりと格下扱いを受けています。
ちなみに曹操は「太祖」と書かれ、劉備は「先主」と書かれており、姓名を直接記さないことで、文章上で敬意を表されています。
ともあれ、こうして三国が正式に建国され、天下をめぐって争うことになります。
劉備の死と諸葛亮の北伐
劉備は222年に、孫権に奪われていた荊州南部に攻めこみますが、夷陵で大敗して撤退します。
そして翌年に病のために死去し、重臣の諸葛亮が事業を継承しました。
皇帝の地位は、子の劉禅が引き継ぎます。
劉禅は自分からはほぼ何もしない人で、お飾りでしたが、諸葛亮は臣下しての礼を尽くし、蜀の体制を構築します。
そして善政を行い、国力を高めた諸葛亮は、強大な魏に対して積極的に攻撃をしかけました。
これは「北伐」として知られており、三国志の後半を飾るメインエピソードとなっています。
しかし関羽や張飛といった、優れた将軍たちを失っていたこともあって、その攻勢はなかなかはかどりません。
蜀は周囲を山岳に囲まれているので、守るのはいいのですが、食糧の輸送が大変なため、他の地域に攻めこむには不向きな土地でした。
劉備が荊州で敗れたのも、これが原因になっています。
そういった要因が積み重なったことで、234年には諸葛亮も力つき、病死してしまいます。
【次のページに続く▼】