三国志を10分くらいで、だいたい理解するための記事

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孫権ものし上がる

一方、孫権は彼らとは違い、父と兄が作った勢力を引き継いだ、おぼっちゃんでした。

【孫権 君主としては有能だけど、戦いは苦手だった】

父の孫堅が無名からのし上がって基盤を作り、兄の孫策そんさくが天才ぶりを発揮して、揚州に一大勢力を作り上げます。

孫権はそれにのっかった人でしたが、父や兄が集めた優秀な人材の補佐を受けて、揚州を無難に統治しています。

そして曹操に味方したり、劉備に味方したりと、うまく立ち回って勢力を伸ばしました。

自身が戦場に出て戦うと、たいていは負けていましたが、総帥としての器量はあり、呉を着実に成長させました。

ですがやっぱり地味なので、三国の中では脇役です。

三国志の前半は曹操と劉備のライバル物語で、そこに脇から孫権が手を出していた、とみておくと、だいたいあっています。

三国の成立

北を制した曹操は、南の荊州に攻めこみますが、そこで劉備と孫権の激しい抵抗を受けました。

荊州は豊かな上に、中国の南中央部をおさえる広大な土地でしたので、ここを曹操が支配すれば、天下統一は実現したも同然でした。

なので、劉備と孫権たちは、団結して曹操に抵抗します。

孫権は曹操と戦おうかどうしようか、最初は迷っていたのですが、諸葛亮や魯粛ろしゅく周瑜しゅうゆといった主戦派の意見を採用し、開戦を決断しました。

こうして曹操は208年に赤壁せきへきで劉備と孫権の連合軍と戦いますが、大敗を喫して後退します。

赤壁は長江ぞいにあり、水軍を活用して戦う必要があったのですが、曹操はそれまでに水軍を率いた経験がなく、なれている孫権軍に翻弄されました。

その上、曹操は北方の兵士を多く連れていましたが、彼らは荊州の風土に合わず、疫病にかかってバタバタと倒れてしまいました。

このために曹操は撤退せざるを得なくなり、南方は劉備と孫権に取られることになります。

劉備はその後、荊州南部と益州を支配して勢力を拡大し、もはや曹操にも、簡単には倒せない相手になります。

孫権も揚州に荊州の一部を加え、こちらも討伐が難しくなります。

この結果として、魏・蜀・呉の三国が並び立つことになったのでした。

荊州争奪戦

荊州は北を曹操が、南東を孫権が、南西を劉備が支配し、三つの勢力が入り混じった状況になります。

しばし均衡が保たれていましたが、219年になると、劉備が益州北部の漢中で、曹操との直接対決に勝利し、情勢が動きます。

荊州の劉備領の長官だった関羽は、曹操軍が動揺している機会を活かすため、北上を開始します。

そしてはん城という曹操領の拠点を攻め、落城寸前まで追いつめました。

危機に陥った曹操は孫権に、「荊州の南は好きにしていいから関羽を攻撃してくれ」と同盟を持ちかけます。

孫権はこれに乗り、関羽が統治していた土地を奪い取りました。

基盤を失った関羽は撤退せざるを得なくなり、やがて孫権軍に捕らえられ、処刑されます。

この結果、曹操は大陸の北部一帯と荊州の北部、孫権は揚州と荊州南部と交州、劉備は益州のみを支配することとなり、三国の勢力圏が、ほぼ定まっています。

【三国の区分 北が曹操 南東が孫権 南西が劉備】

魏の建国

一番最初に正式に建国されたのは、魏でした。

曹操は220年に亡くなり、子の曹丕が後を継ぎました。

すると曹丕はすぐに、献帝に皇位を譲るようにと脅迫します。

献帝にはなんら実権がなかったので、言いなりになるしかありませんでした。

こうして後漢が滅び、かわって魏王朝が成立します。

蜀の建国

すると、これを知った劉備は献帝にかわって漢を建国すると宣言し、皇帝に即位しました。

漢王朝を引き継いで、曹丕を倒して中国全土の支配者に返り咲く。

それが劉備の掲げた大義だったのです。

このため、蜀こそが三国の中で正統な王朝なのだ、とする蜀漢正統論、という歴史観が存在しています。

劉備の領土となった益州は、もともと蜀と呼ばれた地域でしたので、この国は一般に「」、または「蜀漢」と呼ばれています。

ちなみに「魏」は古代中国に存在した国の名前で、「呉」も同様です。

呉の建国

その後、孫権は魏と戦いつつ様子見をしていましたが、229年に皇帝に即位し、呉を建国しました。

孫権は漢王朝の血を引いていませんし、勢力も二番手で、皇帝になるための根拠が乏しくなっています。

このため、『三国志』においても、孫権は皇帝としての扱いは受けておらず、名前はそのまま「孫権」と呼び捨てで書かれ、死んだ場所も記録されないなど、はっきりと格下扱いを受けています。

ちなみに曹操は「太祖たいそ」と書かれ、劉備は「先主せんしゅ」と書かれており、姓名を直接記さないことで、文章上で敬意を表されています。

ともあれ、こうして三国が正式に建国され、天下をめぐって争うことになります。

劉備の死と諸葛亮の北伐

劉備は222年に、孫権に奪われていた荊州南部に攻めこみますが、夷陵いりょうで大敗して撤退します。

そして翌年に病のために死去し、重臣の諸葛亮が事業を継承しました。

皇帝の地位は、子の劉禅りゅうぜんが引き継ぎます。

劉禅は自分からはほぼ何もしない人で、お飾りでしたが、諸葛亮は臣下しての礼を尽くし、蜀の体制を構築します。

そして善政を行い、国力を高めた諸葛亮は、強大な魏に対して積極的に攻撃をしかけました。

これは「北伐ほくばつ」として知られており、三国志の後半を飾るメインエピソードとなっています。

しかし関羽や張飛といった、優れた将軍たちを失っていたこともあって、その攻勢はなかなかはかどりません。

蜀は周囲を山岳に囲まれているので、守るのはいいのですが、食糧の輸送が大変なため、他の地域に攻めこむには不向きな土地でした。

劉備が荊州で敗れたのも、これが原因になっています。

そういった要因が積み重なったことで、234年には諸葛亮も力つき、病死してしまいます。

【次のページに続く▼】

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