停滞期
その後、三国はいずれも決め手を欠き、戦いはするものの成果を出せず、ほとんど勢力が変わらない状態が、30年近くも続きます。
そうこうしている間に、魏では曹操の一族が衰え、重臣の司馬懿に国を乗っ取られてしまいました。
また、蜀では優秀な政治家が出てこなくなり、そのうえ後漢のように悪い宦官がはびこるようになったため、国力が衰えていきます。
そして呉では、孫権が年を取ってもうろくし、国政を乱したあげく、252年に死去しました。
その後で内部抗争が発生し、しばらくして孫皓が皇帝になりますが、彼は暴君であり、多くの王族や臣下が殺害されます。
このようにして、建国から三十年ほどで、どの国も衰退の兆しを見せるようになりました。
蜀が滅ぶ
いちばん先に滅んだのは、蜀でした。
263年に、魏を実質的に支配していた司馬昭(司馬懿の子)が主導し、20万もの大軍を動員して、蜀に攻めこませます。
すると将軍の鄧艾が大活躍し、蜀軍の裏をかいて一気に首都の成都に迫り、劉禅を降伏させました。
こうして蜀は脱落し、あとに魏と呉が残りました。
魏も滅ぶ
ついで滅んだのは、意外なことに、もっとも勢力が強かった魏でした。
といっても領土を奪われたわけではなく、曹氏の王家が弱体化したので、司馬氏の一族に乗っ取られたのです。
265年には、司馬昭の子・司馬炎が魏から禅譲を受け、新たに晋を建国して皇帝となりました。
【最終的に統一した司馬炎 曹操とも劉備とも孫権とも関係ない人が統一するのが、歴史の面白いところ】
晋もまた、古代中国に存在していた国の名前です。
その後、晋は残る呉の討伐を計画し、着々と準備を進めて行きます。
呉も滅ぶ
呉は先に触れた通り、孫皓の暴政によって統治が乱れ、国力が低下していました。
これを見た司馬炎は、279年に20万の大軍を動員し、呉に攻めこませます。
すると280年に呉の首都である建業の攻略に成功し、孫皓は降伏しました。
こうして最後に残った呉も滅び、晋によって中国は統一されています。
結局は、三国はいずれも天下を制することができなかった、というのが、三国志のオチとなっています。
なお、歴史書としての『三国志』はこの晋の時代に、陳寿という人が書きました。
このため、晋の前身である魏が優遇されており、曹操や司馬懿にとって都合の悪いことは、書かれていないこともあります。
晋も長続きせず
こうして統一に成功した晋もまた、長続きしませんでした。
これは統一皇帝となった司馬炎が、すっかり気を緩めて政治をさぼるようになり、酒と女におぼれて遊び暮らすようになったからです。
そして後継者にダメな子供を指名し、親族たちに地方で大きな権限を与えました。
この結果、親族たちは皇帝の地位を狙って反乱を起こすようになり、晋は衰退していきます。
やがて晋は316年に滅亡してしまい、その後は五胡十六国と呼ばれる、三国よりもはるかに多く、国が分裂する状況になりました。
これは魏や晋が、異民族を積極的に領域内に住まわせたことも原因になっており、次から次へと国が立ちあがり、消えてゆく状況になります。
これが落ち着くには、隋や唐の建国を待つ必要がありました。