蜀が滅亡する
さらに263年になると安南将軍に昇進しますが、この年に蜀は魏に併呑されてしまいます。
霍弋はこの時、魏軍が押し寄せたと聞くと、成都にかけつけようとしましたが、劉禅は「敵への備えは既に完了している」と伝え、これを許可しませんでした。
しかし、間もなく成都が陥落してしまったので、霍弋は白服(喪服)を着て哭礼を行い、三日にわたって喪に服しました。
諸将はみな「すみやかに降伏をした方がよいでしょう」と勧めましたが、霍弋は次のように答えました。
「いまは成都との交通が途絶しており、主上(劉禅)の安否もわからないのだから、降伏や、身の進退を安易に決定してはならない。
もしも主上が魏と講和され、礼遇されているのであれば、それがわかってから降伏しても遅くない。
もし、万が一にも主上が危険な目にあわれ、辱めを受けておられるのであれば、わしは死を覚悟して、魏に抵抗するつもりだ。
遅いだの早いだのと、何を議論することがあろう」
劉禅の待遇を確認してから降伏する
そして劉禅が魏に降伏し、東に移ったとの情報を得てから始めて、六郡の武将や太守を率い、魏に上表しました。
「人間は父・母・主君の、三者のおかげで生きています。
この三者への仕え方はどの場合も同じであり、危難があれば、その命を捧げるものであると臣は聞いています。
それゆえ臣礼をとり、二心を抱くことはありません」
当時、魏を実質的に支配していた司馬昭は、この上表を喜び、霍弋を南中都督に任命しました。
これは名目だけの地位ではなく、実際の職務を任されています。
霍弋の忠節と、道義にかなった言行が、司馬昭から高く評価され、蜀の旧臣だったにもかかわらず、すぐに用いられることにつながったのです。
また、霍弋は精強な軍を率いていましたので、利用価値があるとも判断されたのでしょう。
交州を攻略する
後に霍弋は軍を指揮し、交州で、呉への反乱を起こした呂興を支援しました。
また後に、交趾・日南・九真の三郡(ベトナム方面)を平定し、その功績によって列侯に封じられ、厚く恩賞を受けています。
霍弋の孫の霍彪は、後に晋の越巂太守にまで立身しました。
このようにして霍氏の一族は、三国時代から、晋代へ移り変わる時期を生き抜いたのでした。