鍾繇 西方の抑えに活躍した魏の重臣

スポンサーリンク

魏諷の反乱の影響で罷免される

しかし、二一九年になると、魏諷ぎふうが反乱を計画したことで、急に鍾繇の立場がなくなりました。

魏諷は才能を高く評価されていた官吏でしたが、魏国の都であるぎょうの守りが手薄になっているのを見るや、反乱を計画して仲間を集めます。

この動きは曹丕に密告されたので、未然に防がれました。

ですが魏諷を推挙したのは鍾繇でしたので、その責任を問われて免職になってしまいます。

復帰して地位が上がる

その後、曹操が亡くなり、曹丕が魏王になると、大理に復帰します。

曹丕が献帝に譲位を迫り、帝位につくと、廷尉(大理と同等の地位)となり、崇高すうこう郷侯に爵位が上がります。

さらに太尉たいい(国防大臣)となり、平陽郷侯に転封となりました。

こうして鍾繇は高位へと上り詰めます。

このころ、司徒しと華歆かきん司空しくう王朗おうろうは曹操の代から仕える名臣でした。

太尉・司徒・司空の三つの大臣の地位は、合わせて三公さんこうと呼ばれ、特に尊重されます。

曹丕は朝議から退出した際に、「この三公は、一代の偉人である。後の世において、これを継ぐのはなかなか難しいだろう」と述べ、鍾繇らを称賛しました。

曹叡にも仕える

曹丕が亡くなり、曹叡が帝位につくと、定陵侯に転封され、五百戸が追加されます。

これによって、以前からのものと合わせて千八百戸の領地となりました。

そして太傅たいはく(未成年の皇帝の教育係)に就任します。

鍾繇は膝に疾患を抱えていましたが、このために拝んだり立ち上がったりするのが困難でした。

そして華歆もまた高齢で病を抱えていたので、朝見の際には、みな車に乗って参内させ、近衛兵が抱えあげて殿上の席につかせます。

この後、三公に病があった時には、このように対応することが慣例となりました。

肉刑の復活について議論する

これより以前のこと、曹操は命を下し、死刑になった者のうちで、宮刑(去勢刑)にすべきものがあるかと、皆に議論させたことがありました。

この時に鍾繇は「古代の肉刑(肉体の一部を切断する刑罰)は、聖人の時代にも行われていました。死刑の代わりとして復活させるのがよろしいでしょう」と提案します。

しかし他の者が、これは民を喜ばせる道ではないとして反対したので、取り上げられませんでした。

その後、曹丕は帝位についたのち、臨席して群臣をもてなした際に、「大理(鍾繇)は肉刑を復活させたいと望んでいる。これは誠に聖王の法だ。公卿たちはともによく議論をしてくれ」と告げます。

しかし議論が定まらないうちに、戦いが発生したので、またも定まりませんでした。

それから太和年間(二二七〜二三二年)のうちに、鍾繇は再び肉刑を復活させ、死刑から減刑される者を増やすことで、年間で三千人は救えるはずだとして、この制度の施行を求めます。

これには王朗が反対します。

蜀や呉との対決が続くうちに、肉刑を復活させると、そのことを喧伝され、魏の評判が悪くなってしまいかねないこと、肉刑は残酷であること、死刑を減じるに値する者には、髪をそって倍の労役を課せばよい、といったことが、その内容でした。

王朗に賛成する者が多く、曹叡はまだ蜀呉が平定されていないことを理由として、やはり取り上げませんでした。

鍾繇は死刑を減らそうと思って肉刑の復活をたびたび主張したのですが、この時代においては、世相に合わないものだと考えられていたことがわかります。

やがて亡くなる

鍾繇は太和四年(二三〇)に亡くなりました。

曹叡は白い服を着て弔問に臨みます。

成侯とおくりなされました。

子の鍾いくが後を継いでいます。

これより以前、曹丕が鍾繇の領地を分割し、弟の鍾えんと子の鍾しょう、孫の鍾らに与え、いずれも列侯として取り立てていました。

鍾毓はわずか十四才で散騎侍郎となりましたが、頭の働きが優れ、にこやかに人と話すのは、父親に似ていました。

蜀との戦いにおいて、いくつかの献策をして取り上げられ、後将軍、都督荊州諸軍事といった重職にまで立身しています。

また、弟の鐘会は蜀の攻略に成功し、大きな功績を立てますが、その直後に、姜維きょういとともに反乱を起こし、鎮圧されて殺害されました。

鍾繇評

三国志の著者・陳寿は鍾繇を次のように評しています。

「鍾繇は広く様々なことに通暁し、法理をよくわきまえていた。一時代の俊英であり、魏氏が初めて帝位についた際に、三公となった。栄えあることだ」

鍾繇は皇帝の側にあって補佐役を務め、朝廷の外にある時には、軍事や行政に優れた手腕を見せており、高い能力を備えた人物だったと言えます。

そして人格は円満だったので、曹丕、曹叡の時代にも尊重され、高位を保って生涯を終えました。

平和な時代においても名を成した人物だったでしょうが、乱世にも対応できるだけの幅の広さを備えていたことで、位人臣を極めることができたようです。