高位につく
華歆は曹操の元に到着すると、議郎となり、司空(大臣。この時は曹操)の軍事にも参与しました。
やがて中央に入ると尚書になり、侍中(皇帝の側近)に転任し、荀彧に代わって尚書令(政務長官)になります。
その後、曹操が孫権を討伐する際には、軍師にもなりました。
このようにして、華歆は政務と軍事の両面において重んじられ、立身していきます。
曹丕の不興を買う
やがて魏国が建国されると、華歆は御史大夫(国政参議官)となり、曹丕が魏王になると、相国(首相)を拝命し、安楽郷侯に封じられました。
それから曹丕が帝位につくと、司徒(大臣)に地位が変わります。
曹丕が献帝から譲位された際、朝臣は三公(大臣)以下、みな爵位を受けたのですが、華歆は態度や様子が状況に逆らっている(喜んでいない)と判断されたため、爵位が昇進しませんでした。
曹丕はこのために長らく不機嫌になっていましたが、このために尚書令の陳羣にたずねます。
「わしは天命によって禅譲を受けた。すべての諸侯の中で喜ばない者はなく、それは声や表情に表れていた。しかし相国(華歆)と公(陳羣)だけは喜んでいなかった。それはどうしてだ?」
陳羣は席を離れ、平伏して述べます。
「臣と相国(華歆)は漢朝の臣下でした。ですので、心は喜んでいても、道義が表情に表れたのです。これによって陛下が実に憎しみを抱かれるのではないかと、恐れてはいたのですが」
魏が譲位されたということは、漢が滅んだのだということになりますので、漢の臣下だった華歆らは、それを容易に喜ぶわけにはいかなったのだと、陳羣は述べたのでした。
これを聞いて曹丕は大いに喜び、華歆を重んじるようになります。
清貧な暮らしを送る
華歆は普段から清貧な生活を送り、俸禄や下賜されたものは親戚や知人などにふるまい、家にはわずかな財産もありませんでした。
公卿たちに官有の奴隷(犯罪者の妻子)が下賜されたことがありましたが、華歆だけがこれを解放し、結婚相手を探してやりました。
これを聞いた曹丕は嘆息し、詔を下します。
「司徒は国の秀でた長老であり、陰陽を調和する役割を担い、何事によらず処理をしている。いま太官(食膳を担当する官)が贅沢な食事を並べているのに、司徒が粗食をしているのは、はなはだ言われのないことである」
華歆は特に御衣を賜り、その妻子や一族の者たちのためにも、衣服が作られました。
華歆は財に対する欲が薄く、前後に渡って、他の諸侯よりも多くの恩寵を受けていましたが、まるで財産を増やしませんでした。
この様子を見て、陳羣は「華公(華歆)は成功してもおごり高ぶらず、清廉であっても心が狭くない」といって感嘆しました。
学問の重要性を説く
ある時、三公の役所において、「孝廉による推挙は、元は徳行によるものでした。経典の試験によって、起用する者を限る必要はないのではないでしょうか」と発議がなされました。
孝廉は人格を基準とした官吏登用の制度で、清廉さや孝心などを基準に選ばれていました。
選抜には学問の試験も行われていましたが、これが不要ではないかと発議されたのです。
この意見に華歆が反論します。
「動乱が発生してからというもの、六経(儒教の経典)は廃れてしまいました。学問の存立につとめることで、王道があがめられるようにするべきです。制度や法といったものは、経典の盛衰に影響を及ぼします。いま孝廉に経典の試験を課さないことにすれば、おそらく学業はこれから廃れていってしまうでしょう。もし特別な秀才がいれば、特に召し寄せて用いるべきです。それに該当する人がいないことは患いですが、得られないのではないかと患うことはありません」
すると曹丕はその言葉に従いました。
管寧を推挙して地位を譲ろうとする
黃初年間(二二〇〜二二六)において、公卿(高官)に詔が下され、世俗と交わらない立派な君子を推挙することが求められました。
この時、華歆は管寧を推挙します。
管寧は華歆の若いころの友人でしたが、戦乱を逃れて辺境地帯に居住していました。
徳義を備えていると評判を得ていた人物で、曹丕は安車(老人のための、座って乗れる車。古代中国では、車は立って乗るものだった)を用意し、管寧を召し寄せます。
その後、曹丕が亡くなって曹叡が即位すると、博平侯に爵位が進み、五百戸が加増されました。
これによって、以前からのものと合わせて千三百戸になり、太尉(国防大臣)に転任となります。
しかしこの時、華歆は病気になったと称して引退し、地位を管寧に譲ろうとしました。
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