劉繇 太史慈を用いず、孫策に敗れた揚州刺史の生涯

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やがて病死する

笮融に裏切られた劉繇は、彼を討とうとして進軍しますが、逆に討ち破られてしまいます。

しかし再び兵を集めて攻撃すると、今度は勝利することができました。

笮融は各地で略奪や暗殺といった悪事を行っていましたが、好き放題に暴れたあげく、劉繇に敗れて逃走し、最後は落ちのびた先の民衆によって討たれています。

こうしてなんとか勢力を盛り返した劉繇でしたが、不向きな軍事活動を続けて心労がたまったのか、やがて病にかかり、あえなく死去してしまいました。

享年は42でした。

遺族が孫策に手厚く処遇される

後に孫策は、豫章に立ち寄った際に、劉繇の棺を引き取り、遺族の元に運ばせています。

それだけでなく、遺族たちを保護し、手厚く処遇しました。

これを聞いた王郎おうろうが孫策に手紙を送り、その行いを称賛しています。

手紙には、「劉繇どのはかつて孫家の支援によって曲阿に身を落ち着けましたが、袁術とのいさかいが起き、やむなく孫家とも敵対するようになってしまいました。

しかし劉繇どのは、本心では孫家に感謝をしており、敵対したのは望むところではなかったのです。

ともあれ、そのような経緯がありながら、孫策どのが徳によって恨みに報い、棺を引き取って遺族を育んだのは、まことに立派な行いです。

史官はこれを記録して、模範として世に知らしめるべきでしょう」

と書かれており、孫策の行動が、人々から高く評価されたことがうかがえます。

このように、孫策の徳行によって劉繇の遺族は保護され、平穏に暮らすことができたのでした。

一方で、孫策が劉繇の遺族を大事にしたのは、劉繇が皇帝の血を引く、名門の出身だったから、という理由があったと思われます。

そのような一族に恩恵を施せば、自ずと孫策の名声も向上するからです。

とはいえ、一度は敵対した者の遺族を丁重に扱った孫策は、寛容な、器の大きい人間だったのは確かでしょう。

劉繇評

三国志の著者・陳寿は劉繇を次のように評しています。

「劉繇は立派な行いをなすことに努め、物事の善悪を正しく判断することに意を用いたが、混乱の時代に、遠く万里の地にあって自立することは、その長ずるところではなかった」

この評の通り、劉繇は平和な時代であれば、優れた官吏・政治家として名を残していたことでしょう。

しかし戦乱に巻き込まれたことから、不向きな軍事行動を行わざるを得なくなり、最終的には勢力を保てず、評判を下げてしまうことになりました。

人は自分に適した時と所を得なければ、なかなか活躍し続けることはできない、ということなのでしょう。

劉繇と似た立場に置かれた人物に、さきほど登場した王郎がいます。

彼もまた政治家として優れた手腕を持っていましたが、戦乱の中で会稽太守となり、孫策に敗れて追い出されています。

しかし王郎はその後も生きのび、朝廷に復帰して曹操や曹丕そうひにも仕え、弱きを助け、強きをくじく気概をもった、魏の名臣として名を残すことになりました。

もしも劉繇が長生きをして、同じく朝廷に復帰していたら、王郎のように名声を挽回する機会が得られていたでしょうが、早死にをしたために、それはかないませんでした。

こういった流れもまた、劉繇にとって不運だったのだと言えます。

子の劉基が孫権に厚遇される

劉繇の子の劉基りゅうきは容貌に優れ、父と同じく公正さを重視し、行いが礼にかなった人物でした。

このために孫権そんけんから厚遇を受け、あるとき、船上で孫権が雨に降られた時に、自分の上に傘をさしかけさせましたが、家臣たちに対しては劉基にのみ、自分と同じく傘をさしかける待遇を与えた、という逸話があります。

また、酒宴の際に家臣の虞翻ぐほんが無礼を働いたので、孫権は怒って彼を処刑しようとしましたが、劉基が強く諫めたので、これを思いとどまったという話もあります。

このように、劉基の存在は呉で尊重されており、やがて孫権が帝位につくと、光禄勲こうろくくんという高位に就任しています。

そして孫権は息子の孫覇そんはの妻に、劉基の娘を迎えるなどもしており、劉繇の一族は、呉で栄えることになったのでした。

そのように孫権から大事に扱われながらも、劉基は驕ることなく日々を勤勉に務め、それまでの一族と同じく、清廉さと慎ましさを保ったので、人々から尊敬を受けたということです。