袁術軍と敵対する
やがて袁術は、漢王朝にとってかわろうとする野心を明らかにし、揚州各地の郡や県を攻撃して支配下におさめていきました。
このため、劉繇は長江の岸辺に軍営を築き、配下の樊能と張英を防衛に当たらせます。
そして世話になった呉景と孫賁を、袁術の息がかかっているから、という理由で追放しました。
こうして敵対関係がはっきりすると、袁術は朝廷の許可もなく、勝手にもうひとりの揚州刺史を任命し、呉景や孫賁と共同して攻めこんできます。
劉繇陣営は、樊能と張英の奮戦によってこの攻勢を跳ね返しましたが、以後は数年にわたり、袁術軍との攻防が続くことになります。
揚州牧となる
袁術軍の侵攻を食い止めつつ、劉繇が勢力を保っていると、やがて朝廷から使者が訪れ、劉繇を揚州牧・奮武将軍に任命しました。
これによって劉繇の名声が向上し、配下の軍勢は数万を数えるほどになります。
こうしていつの間にか、硬骨かつ公正な官僚だった劉繇は、群雄のひとりとして立つことになったのでした。
一見したところは、おおいに出世したようにも見えますが、劉繇の本領は平和な時代に、忠良な官吏として働くことにあり、この運命は、むしろ不幸だったのだと言えます。
孫策に攻め込まれ、太史慈が訪ねてくる
やがて、袁術の配下となっていた孫堅の子・孫策が曲阿の攻略に乗り出すと、劉繇軍はたちまち劣勢となり、危機に陥ります。
ちょうどこの時、同郷の太史慈が劉繇の軍勢に加わろうと、曲阿を訪ねてきていました。
そして孫策が攻めこんで来たという知らせが届くと、周囲の者たちは「武勇で知られる太史慈どのを将軍に任命し、迎え討たせてはいかかでしょう」と劉繇に進言します。
しかし劉繇は友人の許子将に侮られるのではないかと怖れ、太史慈を起用することができませんでした。
許子将は人物鑑定の名人として知られる人物で、かつて曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したことがあります。
そしてこの時は曲阿に移住し、劉繇の相談相手になっていたのでした。
劉繇は許子将からの評価を気にするあまり、自分の目で太史慈の才能を見抜いて用いることができず、ただの偵察役の任務しか与えませんでした。
この行いが、劉繇の評判を下げることにつながっています。
劉繇は武に疎く、武官の才能や人格を見抜いて登用できるだけの見識は、備えていなかったのでした。
孫策に敗れ、豫章に逃れる
孫策が長江を渡って攻め込んでくると、樊能や張英では相手にならず、やがて討ち破られてしまいます。
このために劉繇は曲阿を失い、南の会稽に逃げこもうとしました。
この時に許子将が、「会稽は富裕な土地ですので、孫策がこの地を手に入れようと、やがて攻めこんでくるでしょう。そのうえ、海辺にあって逃げ場のない土地ですから、行ってはなりません。それよりも豫章に向かった方がいいでしょう」と劉繇に勧めたので、そちらに向かうことにします。
豫章は会稽よりも、曹操や劉表の勢力圏に近く、彼らは漢王朝に逆らう袁術よりは、朝廷の命を受けて活動する劉繇の方に協力的なはずでした。
ですので、その支援を受けて袁術に対抗した方がいい、というのが許子将の助言だったのです。
曹操や劉表は、必ずしも漢王朝のために動いていたわけではありませんが、間もなく会稽は孫策に占拠されていますので、そちらに向かうよりは、賢明な判断だったと言えるでしょう。
諸葛玄を豫州から追い出す
この時の豫章郡には、諸葛玄(諸葛亮の叔父)が太守として赴任していました。
劉繇は彼を追い出そうと考え、配下の笮融に命じて攻撃をしかけさせます。
笮融は諸葛玄を追い出すことには成功したものの、そのまま郡の役所を占拠し、自立の意志を見せ始めてしまいました。
「笮融は大義や忠節といったものに目もくれない、信用ならない男です」と劉繇に進言する人がいましたが、すでに笮融は勝手に行動するようになっており、後の祭りでした。
このようにして劉繇は、信義に厚い太史慈は重用せず、信用ならない笮融には重要な仕事を任せてしまったのです。
このあたりの行動から、劉繇には人を見る目が欠けていたことが明らかで、それがせっかく築いた勢力を保つのを、難しくさせた原因となりました。
なお、太史慈は豫章に向かう途中で劉繇陣営から離脱し、しばらくしてから孫策に仕え、信任を受けて重く用いられました。
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