蕭何 内政や統治に優れ、劉邦を支えた名臣の生涯について

劉邦は蕭何を疑い始める

劉邦はおおらかに人材を陣営に受け入れていく一方で、王になってからは家臣たちを疑いの目で見るようにもなっていきました。

それは蕭何にも向けられており、このために疑いを避けるべく、蕭何は一族のうちで従軍可能なものはすべて戦場に送る、という措置を取っています。

蕭何は統治能力が高く、関中の住人たちに慕われていただけに、その気になればこの土地を乗っ取ってしまうことも可能で、それだけに劉邦は蕭何を恐れる気持ちを抱くようにもなっていたのです。

蕭何はかつて沛の街を県令から奪って劉邦に譲り渡しましたが、その時の鋭い手腕が劉邦の印象に残っていたから、というのも疑いの根拠になっていたと思われます。

とは言え、蕭何の働きがなければ項羽に勝利することはできませんので、戦いが続いている間は、表立って問題が起きるほどの事態にはなりませんでした。

項羽を討ち破り、劉邦が漢の皇帝になる

やがて劉邦は食糧不足となって弱体化した項羽の軍勢を「垓下(がいか)の戦い」で討ち破ります。

この時に数十万の軍勢を指揮し、項羽を直接倒したのが韓信でした。

蕭何の推薦の通り、項羽に勝利するには欠かせない人材であったことが証明されます。

そして劉邦は漢帝国の皇帝となり、大陸の統一に成功しました。

劉邦はすぐに臣下たちの論功行賞を行いましたが、この時に勲功第一に選ばれたのが蕭何でした。

蕭何には戦場での功績はひとつもありませんでしたが、関中の政情を安定させ、劉邦に絶えず兵員と食料を送り続け、項羽との戦いに勝利をもたらしたことが評価されたのです。

そして引き続き丞相として漢帝国の政務を担い、戦乱で荒れ果てた国土の復興に力を尽くすことになります。

韓信の謀反

先に述べた通り、劉邦は項羽との戦いの最中から臣下たちの動向を疑うようになっていましたが、それは最も大きな戦功を立てた韓信に対しても同じでした。

韓信は戦後に楚王となり、広大な領地を支配するようになりましたが、このために劉邦に警戒され、やがて罪に落とされて地位を剥奪されます。

そして一諸侯に転落してしまった韓信は劉邦を恨むようになり、やがては謀反を企むようにもなります。

同志に地方で反乱を起こさせ、討伐に赴いた劉邦を都から引き離し、その隙に挙兵して都を占拠する、というのが韓信の計画でした。

しかしこれを密告するものがあり、この陰謀は留守を守る劉邦の妻・呂后(りょごう)の知るところとなります。

韓信を捕らえる

呂后からの相談を受け、蕭何は事態の収拾に取りかかります。

韓信はかつて蕭何の強い推薦によって大将軍になれたという経緯がありましたので、蕭何のことだけは変わらずに信用していました。

蕭何はこのことを利用し、韓信を宮中に誘い出して捕縛します。

そして韓信は呂后の命令によって、すぐに処刑されてしまいました。

この結果を見るに、蕭何は韓信を引き立てて漢帝国成立のために活用し、漢帝国をゆるがしそうになったら、捕らえて処刑させたことになります。

政治家としては正しい処置ではありましたが、冷徹であった、とも言えるでしょう。

単に内政に長けただけの人物ではなかったことが、この時の行動からもうかがえます。

【次のページに続く▼】

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楚漢戦争 中国史
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