蕭何 内政や統治に優れ、劉邦を支えた名臣の生涯について

相国に任じられる

こうして韓信を捕らえて謀反を防いだ功績を讃えられ、蕭何は新たに相国(しょうこく)という地位に任命されます。

相国は漢における臣下の最高位で、蕭何と曹参の二人だけが就いた地位でもあります。

蕭何はこれ以外にも剣を身に着けたまま昇殿できる特権なども与えられ、並ぶもののいないほどの権勢を手に入れています。

粛清を逃れる

しかし韓信が謀反を企んだことで、劉邦の臣下に対する猜疑心はさらに強まっていき、それは蕭何にも再び向けられることになります。

このため、蕭何はわざと田畑の売買で不正を行って大金を稼ぐなどの悪事を働き、自分の評判が落ちるようにと努めました。

名声が落ちて影響力が下がれば、劉邦が謀反を疑うことはないだろう、と配慮したためです。

この結果、一時的に投獄されることはあったものの、命までは取られずにすみ、他の多くの功臣たちとは違い、天寿を全うしています。

劉邦の2年後に亡くなる

蕭何は紀元前193年、劉邦の死から2年後に亡くなっています。

生年が不明なため、享年もまた不明です。

蕭何の死後、その家系は何度も途絶えてしまうのですが、そのたびに時の皇帝が子孫を探し出し、後を継がせるということを繰り返しています。

前漢・後漢の時代を通じて400年もその措置が続けられており、蕭何の築いた名声と、その統治への評価がいかに大きかったのかがうかがい知れます。

相国は蕭何と曹参だけがその地位についた

蕭何が就いた相国の地位ですが、その後を継いだ曹参がこの地位について以降は、誰も任じられることがありませんでした。

蕭何と曹参に並ぶほどの者がいないから、というのがその理由でしたが、およそ400年後、後漢の末期になってこれが破られます。

相国になったのは暴政を行ったことで知られる董卓であり、彼のようなものが相国の地位についてしまったことが、漢の命運が尽きたことを知らしめる、象徴的な出来事だったと言えるでしょう。

蕭何がいなければ劉邦は皇帝にはなれなかった

これまで見てきたとおり、蕭何は劉邦が世に出るきっかけを作り、彼が軍団の長となってからは内政や補給を支えました。

さらには韓信という優れた人材の才能を見出して大将軍に推薦するなど、劉邦が項羽に勝利するために必要だった要素のうち、2つを一人で満たしたことになります。

もしも蕭何が沛の街の役人になっていなければ、劉邦が漢の皇帝になるような運命を持つこともなかったでしょう。

蕭何は人を引き立てることが得意な人物でしたが、一方で自分が頭領となって乱世に覇を唱える資質はないと自覚しており、補佐に徹する生涯を送っています。

優れた能力を持っていながら、同時に自分の限界をしっかりと見極めたところに、蕭何がまことに賢人であったことが証明されていると思われます。

関連書籍

項羽と劉邦の対決を描いた司馬遼太郎の小説です。
弱者であるはずの劉邦が、いかにして項羽を討ち破ることができたのか、その過程がよくわかる構成になっています。
時代の変わり目における、人物群像の物語としても秀逸です

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