蕭何 内政や統治に優れ、劉邦を支えた名臣の生涯について

県令を殺害して劉邦を迎える

しかしいざ劉邦が沛にまで戻ってくると、県令は気が変わってしまい、門を閉ざして劉邦の入城を拒絶します。

劉邦は元はごろつきのような身分の男でしたし、もしかしたら蕭何たちは劉邦と共謀して沛を乗っ取るつもりではないかと疑ったのです。

これを受けて蕭何は策を用います。

まず劉邦に連絡し、「城を守っていてもいずれは反乱軍に攻め落とされて被害を受けることになる。そうなる前に県令を殺し、頼りになる人間を頭領に据えるべきだ」と書いた手紙を投げ込ませます。

そして蕭何は街の長老たちを説得し、人手を集めて県令を殺害し、クーデターを成功させて沛を乗っ取りました。

劉邦が代わって県令に就任し、沛の街をあげて秦への反乱に参加することになります。

こういった経緯を見るに、蕭何は単なる内政官ではなく、いざとなれば血を流すことも厭わない、策士としての相貌も備えていたことがうかがえます。

軍の事務を取り仕切る

軍隊もまた一個の組織であり、その運営には事務や手続きが欠かせません。

蕭何は劉邦を頭領にして反乱軍を仕立てると、その事務の一切を取り仕切り、特に物資の調達に才能を発揮します。

蕭何は常に適切な量の軍需物資を入手し続け、劉邦軍を飢えさせることがありませんでした。

このために劉邦軍はどこに行っても略奪をする必要がなく、他の軍閥よりも民衆から支持される存在になっていきます。

このことが、最終的に劉邦が勝利を得る上で有効に機能していくことになります。

反乱軍として各地を転戦するうちに、劉邦軍には張良という抜群の能力を持つ軍師が加わったため、蕭何は軍事作戦や謀略などに携わる必要がなくなり、事務と内政に専念できる環境が整いました。

秦の打倒に成功し、咸陽を攻め落とす

劉邦は楚の遺臣である項梁と項羽が中心となった反秦勢力に加わり、そこで将軍のひとりとして活動するようになります。

そして秦を本格的に打倒するための作戦が実施された際には別働隊の大将となり、秦の本拠地である関中を攻略する作戦に取りかかりました。

本隊を率いる項羽が北回りで秦軍と対決している間に、劉邦は比較的手薄な地域を攻略し、やがて関中に侵入することに成功します。

そのまま秦の都・咸陽(かんよう)の占拠にも成功し、劉邦は秦打倒の立役者になりました。

この時に劉邦と配下の武将たちが宝物庫や後宮に殺到するのを尻目に、蕭何は公的な文書が保管されている蔵に向かいます。

そしてそこで秦の法律や各地の人口・税収などが記録された行政文書を入手し、これを持ち帰りました。

この時の蕭何の措置が、後に漢が大陸全土を統治する上で大いに役立つことになります。

なお、この時に劉邦は後宮の女性や秦の財宝を我が物にしようとしますが、張良に諌められて断念しています。

これは劉邦が秦の地で、人望を得るための策でした。

劉邦が漢王となり、丞相になる

秦の都を陥落させたものの、劉邦は強者である項羽にその果実を奪われ、漢中という辺境の地の王に封じられます。

これによって劉邦の身分は「漢王」になりました。

この措置は、項羽陣営が劉邦の勢力を警戒していたことの現れでもあります。

劉邦軍が漢中に到着すると、劉邦は蕭何を丞相に任命し、内政の一切を委ねました。

これまでの働きからいって当然のことではありましたが、劉邦は人の能力を見抜く目に優れており、的確な人事を行うことを得意としていました。

【次のページに続く▼】

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楚漢戦争 中国史
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