軍事から遠ざけられる
曹丕が魏王の地位につくと、曹彰は諸侯と同じように領国に赴きました。
この時に、次のような詔勅が下されています。
「先王の道は勲功あるものを用い、ちかしき者に親しみ、同じ母から生まれた同胞を取り立て、国を開かせ家を受け継がせた。
それによって本家を守護し、あなどりを防ぎ危難を鎮めたのである。
彰(曹彰)は先に命令を受け、北方を討伐し、北の地を清めて平定した。
その功績は立派なものである。
このために五千戸を加増し、前の分と合わせて一万戸とする」
この詔勅だけを見ると、曹彰は優遇されたかのように見えますが、実際には違っていました。
当初、曹彰は曹丕からも任務を授けられ、将軍として起用されることを期待していました。
しかしそれが実現せず、軍権を取り上げられたので、内心では不機嫌であり、曹丕からの使者が訪れるよりも先に都を出発しています。
【曹丕は曹彰ら、弟たちを冷遇する】
中牟王となる
曹彰が与えられた土地はひどく痩せていましたので、かわって中牟が領地になりました。
やがて曹丕が後漢から禅譲を受けて皇帝になると、そのまま中牟王に取り立てられています。
この後、曹丕が許昌に行幸をすると、ご機嫌うかがいのため、北方の諸侯たちがそちらに向かいました。
その途上で、彼らが中牟に差しかかった際には、曹彰の剛気かつ厳格な性格を恐れ、必ず速度を上げ、急いで通過した、という逸話があります。
一方においてこれは、曹彰が曹丕から良く思われていないらしいことを知り、関わるのを避けていたのだとも考えられます。
222年には任城王となりましたが、曹丕からの扱いがよくなることはありませんでした。
冷遇され、憤死する
223年になると、曹彰は都に参内しましたが、なかなか曹丕は目通りを許しません。
これはかつて曹彰が冷遇に憤り、反逆を起こしかねない様子を見せていたためだと言われています。
曹彰は都に滞在するうちに、急に病を発し、そのまま死去してしまいました。
曹彰は曹丕からの度重なる仕打ちに怒りを発し、このために憤死したのだと言われています。
後に曹植は文章の中で「曹彰は世を捨てた」と表現しており、その死が尋常のものではなかったことをうかがわせます。
あるいは、憤りのあまりに自害をしたのかもしれません。
いずれにしても、曹彰は曹丕に用いられず、その才能を十分に発揮することもないまま、若くして世を去ることになったのでした。
死後に威王と諡されています。
曹丕と弟たち
このように、曹彰と曹丕の間はうまくいかなかったのですが、それは曹彰に限った話ではありませんでした。
曹丕は弟たちを全て冷遇し、ある程度の領地こそ与えるものの、役人の監視下に置き、士大夫(知識人層)との接触を禁じるなどして、彼らを孤立させました。
そして兄弟の間で交流をすることすらも禁じ、囚人同様の扱いをしています。
このために、王族であることをやめ、平民になりたいと願い出る者まで現れるありさまでした。
曹丕は、なかなか曹操から後継者に選ばれず、弟との競争をさせられていましたので、それによって弟たちが信用できなくなり、彼らを冷遇することにしたようです。
彼の度量のなさがそれに拍車をかけ、曹氏の勢力が弱まる事態を招きました。
曹彰はそのような曹丕の措置によって、なすところなく生涯を閉じることになってしまったのでした。