追撃をかけて敵を殲滅する
桑乾は代から二百里(80km)ほど離れた場所にありました。
長史(副官)や諸将はみな、
「遠距離を進軍してきたため、兵も馬も疲れきっています。
それに、代を越えて進軍する指示は受けてはいません。
これ以上奥地に入り込み、命令に違反し、敵に軽々しく挑むべきではありません」
と主張しました。
曹彰はこう言い返します。
「軍を率いて進む時には、ただ勝利のみに専心すべきだ。
指示など何だというのだ。
蛮族の軍勢はまだ遠くまで逃げていない。
奴らを追えば必ず打ち破ることができる。
命令に従って敵を放り出すのは、良将のすることではない」
そして馬に乗り、将兵たちに命令しました。
「出発に遅れたものは斬り捨てるぞ!」
そして一昼夜をかけて敵に追いつくと、攻撃をしかけて散々に打ち破りました。
討ち取ったり、生け捕りにした敵の数は、数千にものぼります。
そして曹彰は、通常の倍の恩賞を将兵たちに与えたので、喜ばない者はいませんでした。
このように、曹彰は将軍として優れた器量を備えていたのでした。
鮮卑族も服従する
当時、鮮卑族の有力者である軻比能が、数万の騎兵を率いて情勢をうかがっていました。
やがて曹彰が敵対する者たちをすべて倒したので、軻比能は抵抗するのは難しいと判断し、服従を願い出ることにします。
こうして曹彰の活躍によって、北方の反乱は全て平定されたのでした。
曹丕の助言に従い、曹操に称賛される
その時、曹操は西方にいて劉備軍と対峙していましたが、曹彰に自分の元にやってくるように伝えます。
これを受け、曹彰が代から鄴を通過する際に、兄の曹丕が曹彰に向かって言いました。
「卿は新たに功績をあげ、いま西へ行って父上にお目通りすることになった。
その際には功績を自慢せず、受け答えは控えめにするとよいだろう」
曹彰は長安に到着すると、曹丕の助言の通りにふるまい、「戦功は諸将のものです」と曹操に伝えました。
すると曹操は喜び、曹彰の髭を手に取って言いました。
「黄髭よ。立派になりおったものだわい」
黄髭とは
曹操はこれ以前に、漢中で劉備と対峙していましたが、劉備は山中に設けた砦に立てこもり、正面から戦おうとしませんでした。
一方で養子の劉封に山を降りさせ、曹操に戦いを挑ませます。
すると曹操は劉備を罵倒し、このように述べました。
「靴屋のこせがれのくせに、つけあがって偽の子供を使い、抵抗してきよるとは。
わが黄髭を呼んできて、攻撃をさせるからそこで待っておれ!」
曹彰は髭が黄色かったので、曹操は彼のことを「黄髭」というあだ名で呼んでいたのでした。
曹操は漢中を奪われた上、劉備軍の守りが堅くて取り戻せませんでしたので、相当に頭にきていたのです。
このために劉備を罵りつつ、曹彰を呼び寄せたのでした。
曹彰は昼も夜も駆け通して漢中に向かいましたが、曹操は漢中の奪還をあきらめ、すでに長安に帰還していましたので、曹彰もまたそちらに向かいました。
曹操が死去する
曹操は東に帰還する際に、曹彰に越騎将軍を代行させ、長安にとどめおきました。
しかし曹操は洛陽に到着すると、やがて病気にかかってしまいます。
このため早馬を送って曹彰を召し寄せましたが、彼がまだ到着しないうちに亡くなりました。
曹彰は洛陽に到着すると、弟の曹植に向かってこう言いました。
「先王(曹操)が私を召し寄せられたのは、お前を世継ぎに立てるつもりだったからだ」
すると曹植は言いました。
「それはいけません。袁氏の兄弟の末路をご存知ないのですか?」
曹操はかつて曹植を後継者にしようと検討していたことがあり、兄の曹丕との間に競争が発生していました。
最終的には曹丕を後継者と定めたのですが、曹操の子供たちの間には、これが原因で軋轢が生じています。
このことが、やがて曹彰と曹植に不幸をもたらすことになりました。
ちなみに「袁氏の兄弟の末路」とは、袁紹の死後に子の袁譚と袁尚が相続争いをしたために勢力が分裂し、そこを曹操につけこまれ、共倒れなったことを指しています。
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