玄瑞は鷹司輔煕邸に侵入し、参内を要請する
来島隊が壊滅した、という知らせを受けていたものの、玄瑞の隊は撤退せず、鷹司輔煕の屋敷を目指しました。
ここは越前藩兵が守備しており、その防備は堅く、容易に突破することはできませんでした。
このため、玄瑞は隊の兵士たちに、堀を残り越えて邸内に侵入させ、そこで越前藩兵と戦いになります。
玄瑞は裏門から邸内に入り、鷹司輔煕と面会しました。
そして朝廷への参内に付随し、もう一度嘆願をさせて欲しいと要請しますが、拒絶され、鷹司輔煕は邸内から脱出してしまいます。
これによって、もはや玄瑞には打つ手がなくなりました。
鷹司邸内で自害する
この頃には越前藩兵が、会津藩から大砲を借りて表門から攻撃を開始しており、長州藩兵はこれを支えきれず、逃亡を始めていました。
退路も断たれて追い詰められた玄瑞は、同志の入江九一に「いかなる手段を用いても囲みを脱して世子にお会いし、京都に近づかないようにと御注進してほしい」と最後の頼みごとをします。
そして入江九一が去った後、最後まで残った同志の寺島忠三郎と、互いに差し違えて自害しました。
享年は25でした。
こうして玄瑞は、志半ばにして世を去っています。
一緒に亡くなった寺島忠三郎は、まだ21才でした。
なお、入江九一は屋敷を出た直後に越前藩兵に殺害され、玄瑞の最後の頼みを果たすことはできませんでした。
その後の情勢
こうして玄瑞は世を去りますが、彼が始めた変革事業は桂小五郎や高杉晋作が、継続して推進していきました。
禁門の変の直後に長州藩は朝敵となり、幕府が主導する第一次長州征伐が実施されます。
そしてアメリカら四国艦隊からの攻撃も受けて長州藩は大打撃を受け、あやうく滅亡の危機に瀕するほどに追い込まれました。
しかし西郷隆盛が事態を収拾し、長州藩への寛大な措置を要請したことで、この危機はかろうじて回避されています。
そして玄瑞の知己であった坂本龍馬の仲介により、長州藩と薩摩藩は和解し、薩長同盟が結ばれたことで、倒幕への機運が高まっていきました。
最終的には長州藩と薩摩藩が中心となって倒幕が成し遂げられ、明治政府が誕生することになります。
玄瑞の果たした役割
玄瑞は幕末の危機的な状況下で、朝廷が幕府から政権を取り戻し、身分の上下を問わずに有志が参加する、新しい日本の政治形態を作り上げることを構想し、この実現のために力を尽くした人物であると言えます。
しかしながら当時はまだ公武合体派の支持者が多く、攘夷にも消極的な傾向が強かったにも関わらず、急進的に倒幕・攘夷を実行しようとしたことで、世間の反発を買い、挫折することになってしまいました。
このあたり、玄瑞はまだ若すぎ、性急すぎた、ということなのでしょう。
最終的には幕府は支持を失って倒れ、玄瑞の構想通りに物事は進行しており、見識そのものは間違っていなかったのだと言えます。
西郷隆盛はそのことを認識していたようで、明治政府の参議に就任した後、同じく参議になった桂小五郎に対し、「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどと言って、いばってはいられませんなあ」と語っています。
西郷隆盛は先人たちの犠牲を忘れない、徳のある人柄の持ち主でしたので、玄瑞の功績を人々に思い起こさせるために、このように語ったのだと思われます。