久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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朝廷への働きかけを強め、攘夷の実行を迫る

藩論が転換したことで、謹慎が解かれた玄瑞は活動を再開し、長州・薩摩・土佐の三藩からなる有志の会合に参加しました

そしてこの時に、攘夷を幕府に命じるために派遣される勅使を、激励するという決議をしています。

また、これとは別に坂本龍馬らと会い、三藩合同で朝廷の御親兵を創設する計画も立てました。

こうして自分が立てた策の実施に向けた手順を進めつつ、三条実美と手を結び、朝廷を尊王攘夷派で主導する体制を作り上げます。

そして幕府に攘夷を督促するため、江戸に向かう三条実美や姉小路公知(あねこうじ きんとも)に同道し、その補佐役を務めました。

幕府は日米修好通商条約を結んでしまった手前、攘夷を実行するのは困難な立場にあり、そこにあえて攘夷を命じることで幕府を政治的に追い詰めていこう、というのが玄瑞の策でした。

また、長州藩だけで攘夷を実行しても成功はおぼつかないことから、日本全国を巻き込むべきである、という真木和泉(まき いずみ)という志士の献策も、この活動に影響を与えています。

外国人の襲撃計画が持ち上がる

江戸に到着した玄瑞は、高杉晋作ら、長州藩の同志たちと合流します。

この時に高杉晋作は、外国公使を襲撃して刺殺しようとする計画を立てていました。

これ以前に、薩摩藩士が生麦で外国人を殺傷する事件を起こしていましたが、「攘夷を掲げる長州藩もこれにならい、攘夷の実績を上げなければならない」というのが高杉の主張でした。

これに対し、玄瑞は「そのような無謀なことをするよりも、同志と団結して藩を動かし、正々堂々と攘夷を実行するべきだ」と述べ、高杉の方針に反対しました。

この意見のぶつかり合いによって、両者は斬り合いになりそうなほどに激昂しますが、井上聞多に仲裁されて事なきを得ています。

結局、この計画は長州藩の世子(後継者)・毛利定広の知るところとなり、計画に参加しようとしていた者たちは謹慎させられ、未遂に終わっています。

イギリス公使館焼き討ち

しかし玄瑞たちはおとなしく引き下がらず、品川に建設されていた、イギリス公使館の焼き討ちを新たに計画します。

玄瑞は高杉の策には反対したものの、攘夷活動を実際に行い、同志たちとの結束を高める必要は感じたのかもしれません。

当時の品川は桜の名所として庶民の憩いの場になっており、ここに外国の公使館を建てることは、品川宿からも反対意見が出るほどに評判がよくありませんでした。

この情勢を見た玄瑞と高杉晋作ら、13名の長州藩士たちは、1863年の1月31日に公使館に忍び込み、火薬を用いて焼き討ちを実行します。

火をつけ終えた久坂と高杉は、芝浦の妓楼から公使館が燃え盛る様子を見つつ、酒盛りをしたと言われています。

こうして江戸の地で、攘夷運動の高まりを示すのろしを上げ、玄瑞らは気勢を上げました。

この焼き討ちは、江戸の住民たちからも好意的に受け止められた、と言われています。

しかし一方で、焼き討ち後に妓楼からそれを眺めるという行動からは、玄瑞たちの若者らしい大胆さと、そして軽率さが現れています。

このような傾向が、やがてその身に苦難を呼び寄せることにもつながっていきました。

イギリスに伊藤俊輔と井上聞多を留学させる

この時期に玄瑞は、松代で松陰の師匠であった佐久間象山に会い、助言を請うています。

この時に象山は、人材を西洋に留学させ、彼らの持つ優れた知識や技術を習得させるべきである、という策を玄瑞に提案しました。

玄瑞はこれを受け入れ、藩主に象山の助言を伝え、同志の伊藤俊輔や井上聞多を、藩費でイギリスに留学させています。

このあたりの動きを見るに、玄瑞は凝り固まった攘夷主義者ではなく、西洋の知識や技術を積極的に取り込んでいくべきである、という開明思想を抱いていたことがうかがえます。

これは師の松陰がやろうとして、果たせなかったことでもありました。

後に明治政府は多くの人材を西洋に留学させ、知識や技術の取り込みを計りますが、これはその先進的な事例となりました。

一方ではイギリスの公使館を焼き討ちにし、一方ではイギリスへの留学を促進しているところに、この時代の日本が抱えていた事情の複雑さが現れているのだと言えます。

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