長井雅楽の航海遠略策
しかしこの時期の長州藩は、重役の長井雅楽(うた)が主導しており、玄瑞らとは異なる「航海遠略策」という政策を藩主に建白し、藩論として採用されていました。
航海遠略策は、朝廷と幕府が調和(公武合体)して日本の国政を執り行い、諸外国との通商によって国力を高めてその侵略を防ぐ、という思想でした。
優れた洋学者として知られる佐久間象山や、松陰も類似した思想を述べていたため、長州藩の重役たちに賛同するものが多く、これが主流派となります。
当時はまだ幕府に対する期待や恐れが強く残っており、幕府を立てて物事を推進するのがよいだろう、と考える諸侯が多かったことも影響しています。
藩主の毛利敬親(たかちか)はこの策を支持し、長井雅楽は上京して公卿(朝廷の重臣)の三条実美(さねとみ)に面会し、朝廷への建言を行いました。
これが孝明天皇に伝えられ、賛同を得るに至り、航海遠略策が世の主導権を握りそうな情勢になります。
そして長井は江戸に赴き、幕閣の安藤信正にも周旋しますが、彼の主張は幕府にとって都合のよいものであったため、こちらでも受け入れられました。
こうして朝廷でも幕府でも長井への賛同者が増えていきますが、この動きに玄瑞たちが反発し、阻止するための活動を開始します。
玄瑞の反対の論拠
航海遠略策は一見したところもっともな意見に見え、そのために多くの人々の賛同を得たのですが、実際には色々と問題点を抱えていました。
玄瑞はその点を指摘し、藩論を覆そうとします。
日米修好通商条約が結ばれて以降、本格的に通商が始まっていましたが、当時の日本には諸外国に売れるような商品の生産体制が十分ではなく、輸入超過となって資本の流出が続いていました。
このために物価が高騰し、庶民たちの生活が苦しくなる、という状況を招いており、積極的に交易を行うのは時期尚早である、と指摘します。
そして幕府は諸外国に対して弱腰であり、対馬を占拠されてもろくに反撃できないありさまで、幕府に任せていても日本の武威が高まることはなく、諸外国の侵略を防ぐことはできない、と述べました。
幕府を助けて朝廷の力を抑えるのも間違いで、朝廷をこそ中心に押し立てるべきだとも主張しました。
玄瑞はこれらの論理をもって長井雅楽と論戦を行いますが、藩内では長井を支持する者が多かったため、容易に覆すことはできませんでした。
このため、玄瑞たちは別の手段を用いることにします。
周布政之助を説得し、長井雅楽の襲撃を計画する
玄瑞らは長州藩のもうひとりの重役である周布政之助(すふ まさのすけ)を説得し、反長井派に転じさせることに成功します。
こうして味方を増やしてから、玄瑞は同志たちとともに上京し、長井雅楽を弾劾する書状を藩に提出します。
さらに玄瑞は長井雅楽を襲撃し、実力で排除しようとも計画しますが、これは機を逸して失敗しました。
やがて藩主・毛利敬親が自ら航海遠略策の斡旋に赴くと聞いた玄瑞は、周布政之助とともに帰国して中止させようとしますが、勝手に任地から離れたことをとがめられ、謹慎させられてしまいます。
こうして玄瑞には打つ手がなくなりましたが、この状況に、容易に屈することはありませんでした。
草莽の志士を糾合する
玄瑞は松陰が唱えた「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」にならい、全国の在野の志士たちをまとめ上げ、攘夷運動を推進する原動力にすることを考えます。
長井雅楽のように身分のある武士たちは、旧来の秩序を維持することを望む保守的な傾向が強く、彼らがのさばっている状況では、日本の政体を変えるのは困難でした。
それゆえに、しがらみのない草莽(民間)の者たちが立ち上がり、この国を変える力となっていくべきである、というのが、松陰が晩年に唱えた「草莽崛起論」の内容です。
玄瑞もこの時期にそれが正しいと判断し、土佐の坂本龍馬や薩摩の西郷隆盛たちと謀議を重ね、所属する藩を問わない志士たちの連合体を形成していきます。
これには商人の白石正一郎も加わっており、武士という身分に囚われない集まりだったと言えます。
こうした動きが、後に藩主たちを置き去りにして、有志たちが直接朝廷と結びつき、新たな政体を構築する動きへとつながっていきます。
こうして玄瑞が諦めずに活動を続けるうちに、水戸藩士たちが、航海遠略策を廃案に追い込むための動きを見せました。
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