久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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御所から閉め出され、攘夷派の公卿たちが失脚する

松平容保の動きによって玄瑞たちの策は打ち破られ、攘夷親征は延期となり、三条実美らが更迭される事態となります。

この結果、公武合体派が朝廷を支配するようになり、長州藩は圧倒的に不利な立場に立たされました。

こうした状況下で、玄瑞は新たに政務座役という、藩の要職に就任しています。

そして京都に滞在し、状況を挽回するための策を講じることになりました。

進発論の高まり

この頃に長州藩の国元では、追放された三条実美や、遊撃隊の総督・来島又兵衛らが主導する「進発論」が支持の高まりを見せていました。

これは長州藩の兵を挙げて京に進発し、武力を背景に長州の無実を訴える、という強硬論でした。

しかし御所から追放された状況でこれを実行すると、朝敵となってさらに追い詰められる可能性が高まるため、玄瑞や桂小五郎は強く反対して押しとどめ、このためにしばらく事態は膠着することになります。

雄藩の藩主たちが京を去り、玄瑞はこれを好機と捉える

長州藩が締め出しを受けて後、朝廷は公武合体派が占めるようになり、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)や、宇和島藩主の伊達宗城(むねき)、島津久光などの有力諸侯が国政に参画するようになっていました。

しかし、参与という立場を得た諸侯と、幕府から参加していた役人たちとの間に、齟齬が生じるようになっていきます。

諸侯の声望が高まると、その結果として、相対的に幕府の権威が衰退することになります。

このため、幕府の役人の中には、彼らが国政に参画している状況を喜ばない者が多かったのです。

一方で諸侯たちは、幕府の役人が時勢に疎く、役に立たない人材が多いことを知り、侮るようになっていきました。

こうして、幕府と諸侯たちの関係はきしみ合うようになり、会議のたびに議論が紛糾します。

やがて上洛していた将軍・徳川家茂が江戸に戻ると、諸侯たちも帰国してしまい、公武合体派は解散状態になっていきました。

主だった人物で京都に残ったのは、京都守護職の松平容保や、将軍後見職の一橋慶喜のみで、このために京都は一時、空白に近い状態となります。

このような事態になったのは1864年4月のことで、玄瑞はこれを好機と捉え、朝廷における長州藩の影響力を取り戻すことを画策します。

進発論が優勢となり、池田屋事件が発生する

玄瑞からの知らせを受け、長州藩の世子・毛利定広の上京が計画され、長州藩兵が進発する準備が進められていきます。

その最中に、京都では池田屋事件が発生しました。

これは京都の旅館・池田屋で会合を開いた長州藩や土佐藩の尊王攘夷派の志士たちを、新選組が襲撃した事件です。

新選組とは、京都守護職・松平容保の支配下にあった、京都の治安を維持するための、非正規の実行部隊のことをいいます。

この事件が発生した契機は、5月頃に、京都に潜伏していた攘夷派の志士・古高俊太郎が新選組に捕らえられたことにありました。

古高は厳しい拷問を受け「風の強い日を狙って御所に火を放ち、混乱に乗じて公武合体派の中川宮を幽閉し、一橋慶喜と松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というクーデター計画を立てていたことを自白します。

これを受け、新選組は京都の旅館をしらみつぶしに調査し、池田屋で古高奪回についての会合が行われることを突き止めました。

そして近藤勇を筆頭とする、新選組の隊員たちが池田屋に踏み込み、多数の志士を殺害し、捕縛しています。

この結果、玄瑞に松陰の弟子になることを勧めた宮部鼎蔵や、松下村塾でともに学んだ吉田稔麿ら、多くの人材が死去しています。

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