報復を受けて大きな損害を受けるも、戦闘態勢は継続される
玄瑞が京で活動している間に、砲撃を受けたアメリカ・フランス両国が軍艦を下関に送り込み、報復攻撃をしてきました。
これによって長州藩の軍艦2隻が沈められ、砲台が破壊されるなどして甚大な被害を受けています。
長州藩はこの事態に対応するために、高杉晋作に馬関の防衛を命じました。
この頃に光明寺党は足軽や農民、町人なども募って組織規模が拡大されており、「奇兵隊」の名称を冠されるようになっています。
高杉晋作は奇兵隊の総督に就任すると、幕府の軍艦である朝陽丸を拿捕し、失った艦の代わりに用います。
さらに砲台を増強し、奇兵隊にならった諸隊を結成するなどして軍事力の増大をはかり、攘夷に対する強硬姿勢を堅持しました。
大和への孝明天皇の行幸が画策される
玄瑞は長州藩が窮地に陥る中で、この状況を打破するため、攘夷の推進と幕府を弱体化させるための計画を立て、三条実美や真木和泉と協力して、これを実行に移しました。
玄瑞は幕府が攘夷の勅旨を受け取りながら、これを実行していないことを責め、天皇直々の、外国勢力と幕府に対する御親征(討伐)を仰ぐ、という策を立てます。
これに真木和泉が賛同し、玄瑞と協力して、長州藩主・毛利敬親に「攘夷御親征の建白書」の提出を働きかけます。
これを毛利敬親が実行すると、三条実美が朝廷内部で工作を行い、「大和(奈良県)の神武天皇稜への行幸(天皇の移動)と、御親征を行う」という詔勅が出されることになりました。
行幸をし、そこで軍議を行い、天皇自らが攘夷を実行することを宣言し、諸藩に要請をする、というのがこの策の内容でした。
玄瑞たちはこの時、官軍の印である「錦の御旗」や武器を準備し、有力な藩に対して軍用金の拠出を命じる偽勅(偽の天皇の命令書)まで用意していました。
こうして倒幕と攘夷の実行が朝廷の方針として定まる直前にまで、事態が急速に進んでいきますが、薩摩藩や会津藩が、この長州藩の策謀を見逃すことはありませんでした。
八月十八日の政変
薩摩藩士・高崎正風(まさかぜ)からの通報を受け、この策謀を会津藩主で、京都守護職の松平容保(かたもり)が知ることとなります。
京都守護職は京都の治安維持のために新設された幕府の役職で、会津藩兵1000人が常駐し、尊王攘夷派と敵対する姿勢を見せていました。
松平容保は長州藩が倒幕を計画していたことに驚愕し、これを防ぐべく、幕府に協力的な皇族の中川宮に事態を知らせます。
そして前関白・近衛忠煕(このえ ただひろ)や右大臣・二条斉敬(にじょう なりゆき)ら、朝廷の重鎮たちからも、長州藩排除への賛同を取り付けます。
中川宮は密かに参内し、「奸臣を取り除く議」を孝明天皇に奏上しました。
この結果、倒幕や御親征を望んでいない孝明天皇は、「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」と真勅(本物の天皇の命令書)を下します。
孝明天皇はかねてより、長州藩に味方する攘夷派の公卿たちが、自分の意に反する偽勅を発行していることに迷惑し、不快感を感じており、このために長州藩を朝廷から一掃する動きが発生することになったのです。
そして1863年の8月18日に、会津・薩摩の藩兵が御所の守備につき、それまで守備を命じられていた長州藩の兵は追い出されました。
このことから、この事件は「八月十八日の政変」と呼ばれています。
この会津・薩摩藩の動きには鳥取藩や岡山藩、米沢藩などの佐幕派の諸侯たちも賛同しており、長州藩の策謀への反発が大きかったことがうかがえます。
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