猛烈な勢いで学習し、海防八策を提案する
象山はそれまで儒学を教える塾を江戸で開いていましたが、幸貫からの抜擢を受けてこれを閉鎖し、洋学の研究へとのめり込んでいきました。
研究を続けるうちに語学の必要を痛感し、オランダ語を勉強するのですが、これをわずか2ヶ月でマスターしたという逸話があり、その学習能力の高さは並外れていたようです。
象山は単に学習が早いだけの人物ではなく、それを元に有効な提案をする能力も備えていました。
象山は「海防八策」という提案書を幸貫に送り、海防だけでなく、日本の国力そのものを高めることを提言しています。
この海防八策では、日本各地の主要な海岸に砲台を築くことと、そのためにオランダへの銅の輸出をやめて大砲を製造すること、といった具体的に資源を用意する方法まで提示しています。
そして西洋式の船舶を建造し、日本の船の質を上げること、海運を盛んにして流通力を高めること、海戦術の訓練を行うこと、なども提案しています。
これは後に弟子となる勝海舟や坂本龍馬が実現しています。
そして全国に学校を建てて民を教育し、知識と徳を高めること、能力によって人材を登用する制度を作ることなど、身分制度の変革を促す提案までしています。
これらの象山の献策はすぐには採用されなかったものの、幕末から明治期にかけてすべて実行されており、ペリー来航の10年も前にここまでの認識に至っていたのは、並外れた先見性であると言えます。
象山はこうして単なる学者の枠を超え、時代の変革を促す思想家としての相貌を帯びていくことになりました。
西洋の砲学や兵学を学ぶ
こうした提案を受け、幸貫は象山に海防のための技術の習得を促すようになり、西洋砲学の第一人者である江川英龍の元で学ぶことになります。
しかし象山は江川英龍とは折り合いが悪かったようで、結局は同じ高島流の下曽根信敦という洋学者から書物を借り、独自に研究を行いました。
西洋の学問は実理に基づいて構成されているため、この理さえ把握できれば、師匠は必ずしも必要なわけではありませんでした。
このため、昔ながらの師弟関係を構築した上での伝授の仕組みにこだわった江川英龍に学ぶのは、効率が悪いと考えたようです。
象山は西洋の開放的な学問のありようを気に入ったようで、自身の学習成果を秘匿することなく、積極的に公開していきました。
学問への姿勢においても、象山の精神は既に近代人であったと言えます。
象山の学問の範囲は科学・医学・軍事など多岐にわたり、特定の分野にこだわらずに盛んに研究活動を行いました。
それだけ象山の知性は柔軟だったということですが、この時期はまだ洋学研究の黎明期だったので、ひとりで多方面に対応する必要があった、ということでもあるのでしょう。
帰藩を命じられる
こうして象山は洋学の研究を進めていきましたが、幸貫が1844年に老中や海防掛を免じられたこともあり、やがて帰藩命令が届くようになりました。
幸貫は松代の藩政改革に取り組んでおり、これに象山の知識と能力を必要としたのです。
新しい学問に集中したい象山は、理由をつけてこれを2年も引き伸ばしますが、ついに断りきれなくなり、1846年には松代に戻り、郡中横目付という役職についています。
この時に象山は36才でしたが、この年齢にして、初めて役人としての実務を担当したことになります。
そして幸貫の主導の元で藩の殖産興業を行い、養豚や植林、ぶどうの栽培などを奨励しています。
また、鉱脈の採掘にもあたり、内政にも意外な才能を持っていることを示しました。
象山は蘭書を乱読していたので、こういった方面の知識も幅広く備えていたようです。
しかし象山の本望は江戸での洋学の研究にあり、藩に江戸での居住を許可してくれるようにと、働きかけを継続して行っていました。
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