閉門を命じられる
1832年になると、象山は幸貫から閉門の処罰を受けます。
閉門とは、家屋の門や窓を閉ざし、そこから出ることを許されないという重い罰でした。
閉門にされた原因は、象山が藩に提出した父・一学の門弟名簿の序列にありました。
この名簿では年長者が下位に置かれており、修正するようにと幸貫から注意を受けたのですが、象山は「絶対に間違っていない」と強固に主張し続けました。
このために「年長者に対して不遜である」として幸貫は象山を厳しくとがめ、閉門の処罰を与えたのです。
儒学の倫理には年長者を敬うべし、というものがあり、この象山のふるまいは、儒学者としては確かに間違ったものでした。
象山は自分の才能と能力に強い自信を持っているため、単に相手が年上だからという理由で敬う気にはなれなかったのだと思われます。
このあたりのふるまいを見るに、象山は知的に儒教の教義を理解はしていたものの、内心ではその教えを軽んじていたのだと思われます。
しばらくして父が病にかかり、それが重くなったために象山は赦免されていますが、目をかけてくれる藩主に逆らい、子供の教育係を任されたのにすぐに辞任するなど、相当に偏屈な性格であったことがうかがえます。
異常なまでに自尊心が強い象山は、相手が藩主であっても、おとなしく従う気にはなれなかったようです。
幕藩体制という身分制の社会にはまったくそぐわない人物であり、もしも幕末の動乱が発生しなければ、才能はあるが性格が奇矯すぎる男だとして、やがては誰からも顧みられなくなっていたかもしれません。
江戸に遊学する
1834年、23才になった象山は学問を深く修めるため、江戸への遊学を希望するようになります。
狭苦しい(と象山が感じる)松代から離れて、広く天下の人士に交わってみたい、という欲求が強まったのでしょう。
やがて藩から遊学の許可が出ますが、旅費を工面することができなかったため、象山は家老の矢沢家に借金をして江戸に向かうことになります。
この時に、身につけた学問を抵当にする、という条件で借金を引き受けてもらっており、実質的には象山の学問の才によって無償で援助してもらったようなものでした。
藩主といい家老といい、松代藩には包容力のある人物が多かったようです。
象山は江戸に到着すると、当代で最も優れた学者であった佐藤一斎の元で、朱子学や陽明学を学んで頭角を表し、山田方谷と並んで「二虎」と称されるようになります。
そして幕末の思想家として名を残す、梁川星巌(やながわ せいがん)や藤田東湖(とうこ)といった優れた人物たちとも交流を持ちました。
一方で、若い頃の象山は優れた才能は持っていたものの、儒学や朱子学などの中国伝来の思想を学ぶ、ありきたりの学者であるに過ぎませんでした。
しかし、この頃には既に西洋諸国がアジア進出に本格的に取り組む時期に入っており、象山はそのような情勢の変化の影響を受け、漢学から洋学へと学びの対象を変えていくことになります。
幸貫が老中となり、その補佐役に任命される
1842年になると、主君の幸貫が老中と海防掛(かかり)という幕府の重要な役目を担うことになります。
老中は幕府の政務を担当する最高位の役職で、海防掛はその名の通り、日本の海岸や海上の防衛政策を担当する役職です。
この年は清がアヘン戦争でイギリスに敗れた時期にあたりますが、このアジア随一の大国の敗戦は、日本に大きな衝撃を与えました。
日本は江戸時代までずっと中国文明の影響を受けていましたが、それを受け継ぐ清が西洋の国に敗れたのを知り、世界史的な大きな転換期が訪れていることを思い知らされたのです。
これまで強く影響を受けていた存在が、既に世界の中では弱体化していたと知るのは、現代で例えると、アメリカが戦争に大敗したと知るのと、同じような衝撃であったと思われます。
これにより、幕府も海防の強化を図らなければならないと悟り、臨時職だった海防掛を常設するようになっていきます。
そのさきがけとして、聡明で知られる幸貫が海防掛に選ばれたのです。
この時に幸貫は象山を顧問として抜擢し、これを受けて象山は西洋文明や海外情勢の研究を行うようになります。
このことが、それまでは伝統的な儒学者であるに過ぎなかった象山が、一躍先進的な知識人へと生まれ変わるきっかけになりました。
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