一橋慶喜に招かれる
1864年になると、象山は一橋慶喜に招かれて京に向かいます。
一橋慶喜は後の徳川慶喜で、江戸幕府の最後の将軍になった人物です。
象山は当時は幕閣であった慶喜に、時勢を説いて公武合体と開国を勧めます。
公武合体は幕府と朝廷が一体となって政権を運営することを言い、当時は日本をひとつに束ねる上で最も有効な施策であると考えられていました。
そして単に国を開くだけでなく、西洋の文物を積極的に取り入れ、日本の国力を強化して西洋諸国に対抗できるようにするべきだ、と主張しました。
象山は公武合体を実現するべく、公家たちの元を訪れて意見を述べており、ひとりの説客として積極的に活動し、時勢に影響を及ぼすべく運動を行います。
こうして象山は再び歴史の表舞台に登場したのですが、当時の京は反開国派、すなわち攘夷派の志士たちが多数潜伏しており、このために象山の身に危険が迫ることになります。
京で暗殺される
1864年の7月11日、象山は京の街を馬に乗って移動していました。
この日は攘夷派の志士たちが池田屋で新撰組に襲撃され、多数が命を落とした直後で、京の街は殺気立った雰囲気に包まれていたと思われます。
象山も池田屋事件の影響で、攘夷派の志士たちが京に潜伏していたことは知っていたでしょうが、特に意に介さず、護衛もつけずにひとりで行動していたようです。
このあたりは豪胆であったと言うべきか、身の安全に無神経であったと言うべきか、微妙なところです。
やがて象山が三条木屋町に差しかかったところ、「人斬り」として知られる河上彦斎(げんさい)の待ち伏せを受けます。
いきなり斬りかかられたので、象山は馬を走らせて逃げようとしますが、彦斎に馬前に立ちはだかられ、暴れた馬から振り落とされてしまいます。
なんとか起き上がった象山は刀を抜いて立ち向かおうとしますが、彦斎に斬り下げられ、背後から彦斎の仲間に刺されて絶命しました。
この時の彦斎は象山が何者であるかを詳しくは知らず、象山が西洋製の鞍を用いて京の街を闊歩しているのが気に入らないという理由で、衝動的に暗殺に及んだようです。
彦斎は後に象山の事績を知り、暗殺を後悔したとも言われています。
ともあれ、こうして象山は53才で命を落としてしまいました。
死後の評価
これまで見てきた通り、象山は江戸の末期に生き、それまでの儒学などの哲学中心の学問の世界から、実学や科学が含まれる洋学の世界に移って行き、世界の現実を捉えた的確な意見を主張することで、時代の変革に影響を及ぼしました。
彼が唱えた政策論はその後、弟子や薩長の志士たちによって実行され、明治政府の政策にも影響を与えています。
象山の主張した内容はいずれも現実に即しており、理性的な思考力の持ち主であったことがうかがえます。
このように、優れた先見性と知性を備えていたのですが、何度か触れている通り、性格に難があったため、弟子たちからもあまりよくは言われませんでした。
このためにその事績と能力の割には、さほどの知名度を得られないままになっています。
例えば吉田松陰は弟子たちに慕われて死後に顕彰されたことから、さほど実効性のある活動は行っていないにも関わらず、その思想家・教育者としての名声は高いままで現代にも伝わっています。
象山は弟子であり、義兄弟の関係にもあった勝海舟からも、死後に「天下の英傑だった」と賞賛されているものの、「問題の多い人だった」とも評されており、手放しで褒める気にはなれない人柄であったようです。
自らを誇りすぎる者はかえって人からの賞賛を遠ざけ、その名を歴史の中で小さいものにしてしまう、ということなのでしょう。
佐久間家は象山に子がいたにも関わらず、死後に断絶させられており、その屋敷は藩に没収され、家屋は取り壊されてしまっています。
父・一学を養子にしてまでして継続させた、名門の家系を絶ってしまった措置からも、象山を直接知っていた人々からの、象山への評価の厳しさがうかがい知れます。

