佐久間象山 幕末に洋学の第一人者として活躍した、天才学者の生涯について

スポンサーリンク

大砲の製造にあたるも、失敗する

こうして松代で働くうちに、蝦夷(北海道)の松前藩からの依頼で、大砲の製造を実施する機会を得ます。

しかしこの時の製造は失敗に終わっています。

試射をしてみると全ての砲身が爆発してしまい、松前藩の担当者から費用が無駄になってしまったことをとがめられます。

しかし象山は謝罪せず、「失敗があるから成功するのだ」と傲然と言い放ち、「今の日本で大砲の製造ができるのは私だけなのだから、諸国の大名たちはもっと費用を出して製造の実験をさせるべきだ」とまで言いました。

この発言には松前藩の役人もあきれたということですが、このように傲岸不遜で自尊心がありすぎるのが、象山という人物の特徴でした。

このために人との諍いが多くなり、弟子の勝海舟から「ホラ吹きだった」と評される原因になっています。

再び江戸に出て塾を開く

1852年、象山が41才の時に、再び江戸での居住が藩から許可されました。

この年には引き立ててくれた幸貫が亡くなっており、象山を松代で用いたいと思う者がいなくなってしまった、ということでもあったのかもしれません。

象山はその性格ゆえに敵が多く、それも込みで才能を買ってくれる人がいなければ、とても役人の仕事は務まらなかったと思われます。

象山は江戸の木挽町に住居を構えると、「五月堂」という塾を開き、儒学と西洋兵学を教授しはじめます。

この塾には先述のとおり、勝海舟や坂本龍馬、吉田松陰、小林虎三郎、河井継之助といった幕末の俊英たちが入門しており、まことに多士済々でした。

このことから、象山の存在は幕末の政情に大きな影響を与えたとみられています。

以下の項で、弟子たちとの関わりについて雑多に触れていきます。

勝海舟の妹と結婚する

象山にはふたりの妾がいましたが、40才を超えてもまだ正妻を持たないままでした。

しかし勝海舟が弟子となったことから縁が生まれ、海舟の妹のお順と結婚し、正妻に迎えています。

この時に象山は42才で、お順は17才でしたので、海舟も父親の小吉も反対しましたが、むしろお順の方から象山の妻となることを希望したようです。

こうして25才差の夫婦が誕生しましたが、象山の妻になることを望んだお順の心情はなかなか興味深いものがありそうです。

幸貫が象山を買っていたように、ある種の人々は象山の持つ才能に惹きつけられるようです。

海舟はこうして象山との縁が深くなりましたが、後に象山を賞賛する一方で、強く批判もしており、その関係には複雑なものがあったようです。

しかし思想的にははっきりと影響を受けており、後に象山が唱えた海軍の整備と人員の育成に、積極的に取り組んでいます。

坂本龍馬に女性の紹介を頼む

象山は自分に過剰なまでの自信を持っており、自分の血を受け継ぐ子どももまた、必ず優れた人材になるだろうと確信を抱いていました。

このために弟子の坂本龍馬に「子どもをたくさん産めそうな、健康な女性を紹介してくれないか」と頼んだことがあります。

これに龍馬がどう応じたかは不明ですが、諧謔を理解できる質だったので、内心あきれながらも、おかしがっていたかもしれません。

なお、実際には子の恪二郎(かくじろう)は、父の仇討ちのために新撰組に入隊するも、粗暴なふるまいを幹部の沖田総司や土方歳三にとがめられて脱走しています。

その後で福沢諭吉が主催する慶應義塾に入塾し、父の名声を頼って司法省に入省したのですが、警察官とケンカをして免職になってしまいます。

父ほどの才能はないものの、傲岸な性格だけは似てしまったようで、何ら成すところなく、後に食中毒で死去しています。

【次のページに続く▼】