半年後に再び来航する
ペリーは幕府と1年後の再交渉を約束していましたが、これを破って半年後の1854年2月に琉球を出港しています。
そして前回を上回る9隻の艦隊を率いることで、幕府に揺さぶりをかけました。
数を増やすことで、もしも開国を断ったなら、さらに多くの船を率いて来て圧迫するぞ、と無言で脅しをかける意図があったと思われます。
アメリカが友好的な関係を求めてやって来ているだけだと、既に一般にも知られていたようで、浦賀はペリーの艦隊目当ての見物客でいっぱいになりました。
幕府も再来航は承知していたので、時期を早められたにもかかわらず、さほどは慌てた様子もなく、両者は平和的な態度に終始しました。
はじめにペリーが幕府の使者を招いてフランス料理をふるまい、幕府の側もこの返礼として2千両(1億円以上)の予算をつぎこんで、和食でペリーと配下の将兵たちをもてなしました。
開国要求の受け入れ
その後1ヶ月ほど交渉が行われ、3月31日に幕府はペリーに返答を送り、開国要求を受け入れることに決定しました。
ペリーは横浜村(現在の横浜市)に上陸し、そこで幕府に仕える儒学者・林復斎と交渉し、日米和親条約を締結しています。
(この交渉はすべて漢文で行われたため、漢文に長じた儒学者が交渉を担当したのです。)
これにより、200年以上に渡って続いた日本の鎖国政策は、終わりを告げることになりました。
この条約により、日本は伊豆半島の下田と北海道の箱館を開港することを約束しています。
アメリカの船は北回りで日本近海までやってくるため、北海道に港を欲していたのが、箱館が選ばれた原因です。
それ以外にも、船が難破した場合に、乗員は下田や箱館で保護されることや、港での購買・物品の交換も許可されています。
これは通商条約ではなかったため、交易に関する取り決めはなされていません。
ペリーは政府から通商条約を結ぶようにと本国から指令を受けていましたので、その点も交渉しましたが、幕府はあくまで人道的な船舶の支援・救助などを約束しただけで、通商に関しては時期尚早であるとして拒否しています。
通商まで許可してしまうと、その影響によってどのように経済や社会が変動してしまうか、予測がつかなかったからであると思われます。
こうして史上初めての、日本とアメリカの間の条約が成立し、現代にも続く日米関係の基礎が築かれました。
アメリカが押しかけ、日本が圧迫されるという関係が基本のものとなり、それが今でも引き継がれているのだとも言えます。
吉田松陰の乗船と渡航要請
浦賀沖にペリーの艦隊が停泊していた際に、長州の思想家・吉田松陰が旗艦のポーハタン号に乗船し、アメリカへ渡航させてほしいと要請しました。
ペリーはその気持ちに理解を示したものの、幕府との交渉がこじれることを警戒し、時期尚早であるとして渡航は許可しませんでした。
このために松蔭は下田奉行に自首して投獄されています。
当時は無断で国外に渡航しようとすることは、犯罪行為だったのです。
松蔭の企ては失敗に終わったものの、これ以後は国外の情勢や文明に強い関心を抱く若者たちが数多く現れ、閉塞的だった日本の情勢を大きく変えていくことになります。
琉球を経由して帰国する
その後でペリーは琉球とも交渉を行い、琉米修好条約を締結しました。
これによって日本と琉球に拠点を確保し、アメリカのアジア進出の基盤を作ることに成功しています。
帰国後にペリーは「日本遠征記」という航海記を著述して議会に提出しますが、アメリカでは通商条約を結べなかったことに対する不満がペリーに寄せられたようです。
日本の歴史を大きく変えたものの、アメリカでの評価はさほど芳しくなかったようで、本人が希望したほどの知名度を得るには至っていません。
これはペリーが遠征をしている間に、大統領が交代し、政権を担当する政党が変わっていたことも影響したのかもしれません。
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