4年後に死去する
ペリーは日米和親条約の締結から4年後に、リウマチや痛風などの持病が悪化し、63才で死去しています。
それからすぐに奴隷制度の是非を巡って南北戦争が勃発し、この激しい内戦のためにアメリカは疲弊してしまい、アジアの情勢に介入する余力を失ってしまいました。
このことも原因となって、ペリーの功績は歴史の中に埋ずもれてしまったようです。
アメリカが切り開いたことで生まれた果実は、後に薩摩藩に接近したイギリスが手に入れていくことになります。
ペリーの影響
こうして見てきた通り、ペリーの計画によって、日本の歴史は大きな変革期を向かえることになりました。
ペリーが幕府の鎖国政策を終わらせ、日米の国交の樹立に成功したのは、事前の綿密な調査と分析によるところが大きく、単なる軍人で終わる人物ではなかったことがうかがえます。
ペリーによって強引に風穴を開けられたことで、やがて幕府は衰退し、薩摩藩と長州藩を中心とした維新の勢力が現れ、鎌倉以来の武家社会が終わりを向かえることになりました。
これはひとえに、蒸気船という新しい文明の姿を、誰にもはっきりとわかるように日本人に見せつけた、ペリーの策がなせるわざであったと言えましょう。
そして当時の日本人には、そうした文明の存在を鋭く認知し、これを理解して取り入れなければ、日本は危機に陥るだろうと理解した人々が一定数いたことが、その後の大きな変革へとつながっていきます。
政情の影響を受け、ペリーの評価はアメリカでは高まりませんでしたが、日本にとってはまことに影響の大きな人物であると言えます。
余話として
アメリカでは功績のあった軍人の名前を軍艦につける習慣がありますが、長くマシュー・ペリーの名は使われていませんでした。
先に述べた通り、兄のオリバー・ペリーの名はよく使われていたのですが、マシューの方はそこまでの人気を得られなかったのです。
しかし2006年になって、はじめて弾薬補給艦にマシュー・ペリーの名が付けられています。
これはペリーの玄孫が命名したもので、2011年には東日本大震災の救援活動に参加し、17回の補充活動を行い、燃料と物資を東北に輸送しています。
およそ160年の時をへて再びペリーが来航したわけですが、今度は日本を威圧することはなく、ただ救援のための任務に従事したようです。