桜田門外の変
3月3日の午前9時ごろ、直弼は駕籠に乗って外桜田の藩邸を出て、江戸城に向かいました。
雪の降る中を、60名あまりの供が行列を作って行進していましたが、桜田門外にさしかかったところで、水戸藩の脱藩浪士ら18名の襲撃を受けました。
この時に襲撃者たちはまず駕籠を銃で狙撃し、この銃弾が直弼に命中しました。
直弼は腰に重傷を負ってしまい、このために動けなくなります。
そして浪士らが行列に斬り込んで来ましたが、この時の家臣たちは襲撃を予想していなかったようで、その大半は逃げ散ってしまいます。
残った数少ない家臣たちは浪士を迎え討とうとしますが、この日は雪が降っていたため、みな刀の柄が濡れないようにと袋をかぶせており、すぐには刀を抜くことができませんでした。
このために対応が遅れ、浪士たちの思うままに斬り立てられてしまいます。
それでも二刀流の剣豪・永田太郎兵衛が浪士に重傷を負わせるなどして抵抗しますが、多勢に無勢で、やがて彼も戦闘不能になりました。
家臣たちは直弼の身を守り切ることができず、駕籠に刀を突き立てられた上で直弼は引きずり出され、首を斬り取られてしまいました。
この暗殺事件は発生した場所から名を取られ、「桜田門外の変」と呼ばれています。
痕跡の消去
間もなく彦根藩邸に直弼が襲撃されたという情報が伝わり、すぐに救援の人員が差し向けられますが、到着したのは既に直弼が討たれた後であり、現場には首のない遺体が横たわっているだけでした。
彦根藩士たちは直弼や、討ち死にした家臣たちの遺体を収容し、血痕の残る雪までも回収し、事件の痕跡を消してしまおうとやっきになっています。
当主が襲撃されて一方的に討たれるのは、武家にとっては大きな失態であり、これを隠蔽して体裁をつくろう必要があったからです。
死の秘匿
直弼の首は薩摩浪士の有村次左衛門の手によって運ばれて行きましたが、彼は重傷を負っていたため、逃走の後に若年寄の遠藤胤統(たねのり)の屋敷前で自害して果て、首はその門の前に放置された状態になりました。
(若年寄は老中に次ぐ幕閣の地位です)
このため、直弼の首は遠藤家に収容されます。
これを知った井伊家は使者を送って直弼の首の引き渡しを要請しますが、遠藤家は幕府の検視が行われなければ引き渡せない、と言って断っています。
最終的には井伊家と遠藤家、幕府の三者で協議が行われ、討ち死にした家来の首と偽って直弼の首を返してもらい、遺体と縫い合わせた上で、表向きは「直弼は負傷して自宅療養中である」と幕府に届け出ています。
幕府からすれば、大老の地位にあるものが白昼堂々と討たれるなどあってはならない事態であり、この隠蔽工作に同調しています。
公式には直弼は急病にかかり、闘病後に死去したことになっており、直弼の子・直憲(なおのり)が井伊家を相続をすることになりました。
このため、実際には3月3日だったのですが、記録上は3月28日が直弼の命日になっています。
悲惨な結果
襲撃した脱藩浪士たちはほとんどが重傷を追って自刃するか、捕縛されて処刑されており、明治まで生き残ったのはわずか2名ほどでした。
彦根藩側も、後に直弼を守らずに逃げてしまった藩士たちを処刑しており、この事件に関わった人間はほとんどが死亡しています。
こうして直弼の行った大弾圧は、彦根藩と水戸藩のどちらにも大きな傷跡を残し、両者はいずれも幕末の表舞台から姿を消していくことになります。
事件の影響
このようにして、大老が白昼堂々と御三家の脱藩浪士に討たれるという大事件が発生し、幕府の権威は大きく傷つきました。
隠蔽工作を行いはしたものの、昼間に街中で発生した事件なので、目撃者も多数いたはずで、隠し切れるものではありませんでした。
幕府内部の権力争いが、ついにここまでの事態を引き起こすに至り、天下に醜態をさらしてしまったことになります。
この結果、御三家の水戸徳川家と、譜代筆頭の井伊家の関係は修復不可能なものとなり、幕府を支える一門衆と譜代大名が協力し合う可能性は皆無となり、その実力は急速に衰えていくことになります。
専制的な処断政策によって幕府の権力を強化しようとした直弼の計画は頓挫し、以後は各地で尊王派が力を強めていき、やがて幕府はその権力を奪われることになります。
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