井伊直弼はどうして安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれたのか?

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名君と呼ばれる

直弼は父の代から続いていた藩政の改革を継続し、領民に対して15万両という多額の資金を配布する措置を取り、高い評価を得るようになります。

直弼は自ら領民たちの声に耳を傾け、現実に即した実効性の高い政策を取り、このために領地は順調に発展していったようです。

後に直弼に処刑されることになる吉田松陰も、その評判を聞いて「慈悲深い名君」だと賞賛しています。

直弼は自分が長く低い立場に置かれていたため、弱い立場にある領民たちに対する同情心が強く、それが施政に反映されたのかもしれません。

また、せっかく藩主になれたのだから、よい政治を行わなければならないという、気負いを感じていた面もあったと思われます。

この頃に学問の師であった長野主膳を彦根藩の藩政に参加させ、自分の腹心として用いていくようにもなりました。

もしも幕末の動乱期に生まれることなく、平和な時代に彦根藩主として一生を過ごしたのであれば、部屋住みの身分から藩主になり、善政をしいた名君として、賞賛のみを受ける人物になったかもしれません。

しかし幕末の混乱する政情に関わりを持ったことから、直弼は日本中を大いに騒がせ、やがては幕府の衰退を加速させることになっていきます。

幕政に関わるようになる

こうして藩主として優れた力量を見せたことから、直弼は譜代大名の筆頭として、幕府の政治にも関わるようになっていきました。

1853年にアメリカの海軍提督・ペリーが黒船で来航し、日本に海国を迫った際には、老中首座の阿部正弘から対応策を問われ、「積極的に交易すべきです」と主張しています。

このことから直弼は開国派であったと見られているのですが、本質的には保守的な政治家であり、内心では可能であれば鎖国を継続するべきだとも考えていたようです。

(どうして直弼が開国派のふりをしていたのかは、後の項で触れていきます。)

この頃に直弼は江戸湾の防備を担当し、幕府の中枢にも参画していくことになります。

将軍家一門の大名たちの政治参加

幕府の政治は長らく、将軍と譜代大名たちが中心となって行う体制が取られていました。

譜代大名とは、徳川家康が将軍になる前から仕えており、家康の出世につれて大名になった家のことを指します。

直弼の井伊氏の他、本多氏や酒井氏などが代表的な存在です。

この体制が、幕末になって変わって行きました。

阿部正弘は将軍と譜代大名だけでは、西洋諸国が日本に押し寄せてくる事態には対処しきれないと判断し、これまでは中枢には関われなかった徳川家の親族の大名たちを政治に参画させるようにしました。

この正弘の措置により、越前藩の松平慶永(よしなが)や、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)らの大名たちが、幕政に対する発言力を持つようになっていきます。

越前藩は家康の次男・秀康が藩祖であったため、親藩の筆頭格の立場にあり、譜代筆頭の井伊家とはいがみ合ってきた経緯がありました。

また、水戸藩は家康の十男が藩祖で、将軍に継嗣がいない場合に養子を送り出す立場にあり、いずれも将軍家の親類の立場にあった家柄でした。

松平慶永も徳川斉昭も、いずれも名君と呼ばれた優れた大名たちでしたが、この措置はかえって幕政の混乱を引き起こすことになります。

譜代大名たちの反発

この事態に、譜代大名の筆頭である直弼は反発し、幕府の中で派閥争いが発生しました。

直弼たちからすれば、これまで自分たちが占めていた権限を将軍家の一門の大名たちに奪われかねない事態になったわけで、反発が発生するのは必然であったと言えます。

阿部正弘はよかれと思って幕政への参画者を増やしたのでしょうが、結果的には内部分裂を引き起こし、幕府の弱体化を導いてしまうことになりました。

そして直弼の好戦的な性格が、この傾向に拍車をかけていくことになります。

【次のページに続く▼】