井伊直弼はどうして安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれたのか?

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直弼はどうして暴走してしまったのか?

自分以外の全ての者を処罰するかのようなふるまいを、どうして直弼はとってしまったのでしょうか。

直弼は長らく部屋住みとして飼い殺しにされた人生を過ごしていました。

32才になってようやくそれが終わり、陽のあたる場所へと出られたわけですが、長らく蓄積した鬱屈した思いによって、直弼の内側には、いつの間にか世の中や他者に対する強い攻撃性が巣食っていたのかもしれません。

それが大老という最上級の地位を得たことで表に姿を表し、その感情に歯止めが効かなくなってしまった、ということはありえるでしょう。

安政の大獄の際のあまりに横暴なふるまいから、直弼は「井伊の赤鬼」とまで呼ばれるようになります。

これはもともと、藩祖・井伊直政の勇敢な戦いぶりを畏怖して贈られた名称でしたが、直弼はその強権的な姿勢を恐れられ、忌み嫌われたことでこの名がつけられました。

鬼と称されるほどの、本人にも抑えが聞かぬほどの暴力性が直弼の内には宿っており、この機会にそれがはじけ飛び、多くの血が流れる事態を招くことになります。

保守的な直弼の心情

直弼は味方であったはずの開国派の幕閣や役人たちをも遠ざけましたが、これは直弼は従来保守的な傾向が強く、心のうちでは開国することを望んでおらず、機会があれば鎖国体制に戻したい、とすら考えていたことに起因しています。

直弼が開国派に属していたのは、ひとえに斉昭と反対の立場を取るためであり、政治的な主義に基づいたものではありませんでした。

このため、自身が主導権を握る立場になったら、開国派の人材を遠ざけ始めたのです。

一方で、幕府内の攘夷派である斉昭は直弼にとっては政敵であり、このために攘夷派をも弾圧する、という行動に出ています。

直弼の行動は政治的な一貫性が見えない支離滅裂なものであり、攘夷派も開国派もどちらも弾圧した結果、幕府の政情をひどく混乱させることになりました。

水戸藩との軋轢が高まる

直弼はこうした弾圧を行う一方で、水戸藩主の徳川慶篤(斉昭の子)に戊午の密勅の返納を再度促します。

最初は色良い返事が得られませんでしたが、直弼が何度も催促を繰り返すうちに、ついに慶篤と斉昭が折れ、密勅が幕府を介して朝廷に返納されることになります。

しかし水戸藩の尊王派がこれに反対し、返納の阻止を図るべく水戸から江戸への道筋に潜伏するなどして、なかなか収集がつきませんでした。

1860年になると、直弼は1月25日までに密勅を幕府に届けるようにと期限をつけて最後通告を送り、これを守らない場合には水戸藩を改易(領地を全て没収)するとまで言って脅しつけました。

この直弼の強硬な措置を受けて水戸藩士たちは激昂し、脱藩した関鉄之介らが中心となって、直弼の暗殺計画が立てられるようになります。

水戸藩は将軍家の血を分ける御三家の家柄であり、これを改易しようとすることは、専横がすぎると言える判断でしたが、この時にはすでに多くの幕閣が遠ざけられていたため、直弼をたしなめられる人材もいなくなっていました。

直弼への忠告と、家臣たちの動き

この頃になると、幕府の人々も水戸藩士たちが直弼を襲撃するのではないかと察知しており、幕閣に参画していた吉井藩主の松平信発(のぶおき)が直弼に忠告をしました。

信発は水戸藩士たちの襲撃をかわすため、大老を辞任して国許に戻り、ほとぼりを冷ますようにと直弼に勧めました。

また、もしも国許に戻るのが嫌なのであれば、護衛を増やすようにとも勧めましたが、直弼はどちらも断っています。

その理由は、護衛の数は法によって定められているのに、大老が自らそれを破るわけにはいかない、というものでした。

それでいながら、大老の地位を投げ出すつもりもなかったようです。

この頃には彦根藩の家臣たちも直弼の身を案じ、密かに護衛の数を増やしていたのですが、これを知った直弼は増員をやめさせており、危険が迫っていると知りながら、自分の身を守ろうとしませんでした。

直弼は自分がここで死んでしまってもかまわないと、どこかで考えていたようです。

自分がやりすぎていることを自覚し、誰かの手によって歯止めがかかることを期待するような心境だったのかもしれません。

【次のページに続く▼】

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