井伊直弼はどうして安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれたのか?

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一橋派が権勢を握る

直弼の死後に譜代大名たちの勢力が衰退し、1862年には斉昭の子である一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政治総裁職に就くなどして、幕政の主導権を握っていきます。

そして彦根藩に対して10万石という大規模な領地削減の処分が下され、以後の井伊家は幕末の動乱期において、大きな役割を担うことはなくなりました。

後に幕府軍と倒幕軍の間で行われた「鳥羽・伏見の戦い」において、彦根藩は幕府軍の先鋒を務めますが、この頃には一橋派に牛耳られた幕府への忠誠心を失っており、倒幕勢力側に寝返っています。

その後は薩摩藩とともに近畿各地の守備にあたり、倒幕の実現に手を貸しました。

こうして直政以来の名門であった井伊家は、主君であった徳川家の権力の喪失に加担し、明治時代にも華族(伯爵)として存続しています。

このような流れになったのは、ひとえに直弼の強圧的な政治活動の結果であり、彼のやったことは、最終的には幕府の衰退を招いてしまっただけだった、ということになります。

本人にはその意図はまるでなかったでしょうが、徳川幕府の終焉を導くことに、大いに貢献してしまったことになります。

複雑な情勢にあたるには適していない人物だった

このような結果を見るに、直弼は幕末の大老にはふさわしくない人物だった、ということになるでしょう。

複雑な政情に対し、粘り強く各派と交渉にあたって、幕府の存続と国難への対処を行っていかなければならなかったのですが、強硬な弾圧政策によって大きな反発を招き、取り返しのつかない亀裂を幕府の内部に発生させてしまいました。

そして、長州藩はこれまでは幕府に対しては従順な姿勢を取っていたのですが、吉田松陰を処刑したことで、その弟子たちが長州藩を反幕府勢力に塗り替え、倒幕運動において主要な役割を果たすようになっていきます。

日米修好通商条約を結び、安政の大獄を行ったことで、幕末の情勢に大きな影響を及ぼしたことは確かですが、それは本人が意図した通りの結果は呼び込まず、大きな反動を引き起こすことになりました。

直弼は保守的な政治思想を持っており、かつ果断な性格の持ち主でしたが、そのような人物は、この状況下においては大老を務めるべきではなかった、ということであり、将軍・家定の人選が誤っていた、ということでもあると思われます。

似た者同士の直弼と斉昭

以下は余談ですが、直弼と激しく対立した水戸藩主・徳川斉昭は、直弼と似たような境遇で育っていました。

彼もまた部屋住みとして30才までを過ごしており、その間に学問や武術に秀でたところを見せ、砲術や薙刀の新しい一派を興しています。

そして兄の早世によって水戸藩の後継者となり、藩主となってからは藩政改革を成功させ、名君と呼ばれています。

気性が激しかったことから「烈公」という異名を持っていますが、このあたりも「赤鬼」と呼ばれた直弼に似たところがあります。

両者は育った環境が似ており、性格も能力も似ていたことから、よりいっそう互いに反発し合うようになり、それが幕府内部の分裂を激しいものにしてしまった、という面があったように思われます。

斉昭は直弼によって失脚させられた後、奇しくも直弼と同年の1860年に、心臓の病のために急逝しています。