井伊直弼はどうして安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれたのか?

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徳川斉昭との軋轢

海防掛顧問(海防大臣の補佐役)となった徳川斉昭は、熱心に攘夷(じょうい。日本から外国人を追い出すこと)を主張し、直弼はこれに対抗するために開国を主張しました。

時を経るにつれて両者の対立は激しくなっていき、ついに斉昭は直弼の味方である、開国派の松平乗全と、松平忠固(ただかた)の2人の老中を罷免するようにと要求します。

阿部正弘は斉昭の強硬な主張を受け、やむなくこれを受け入れますが、今度は直弼が強く反発します。

そして自身の派閥から老中を新たに任命するようにと要求し、阿部正弘は、今度は開国派で譜代大名の堀田正睦(まさよし)を老中に任命し、軋轢の解消を図りました。

こうして阿部正弘は、幕政参加者の枠を広げたことで発生した抗争の調整に追われ、ひどく疲弊していくことになります。

南紀派と一橋派の争い

この後も幕府内の争いはいっこうに収まらず、1857年に心労から阿部正弘が死去すると、代わって老中首座となった堀田正睦は松平忠固を老中に再任し、開国派が勢力を増して行きます。

一方で、当時の将軍であった徳川家定は、病弱で子を成すことが難しい状況にあったため、次の将軍は徳川氏の一門から養子を取ることになります。

このため、分裂していた幕府内では次の将軍を誰にするかで争いが発生しました。

この時に直弼らは御三家・紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ)を推薦し、斉昭らは一橋慶喜(よしのぶ。斉昭の子)を推薦し、再び両者の間の主導権争いが激化していきます。

このことから直弼らは南紀派と呼ばれ、斉昭らは一橋派と呼ばれました。

大老

幕府の職制では、通常は老中が最高位なのですが、非常時などに大きな権限を預け、難局にあたるための臨時職として、大老(たいろう)という地位が用意されていました。

この時代は西洋諸国が次々と日本に押し寄せ、その強大な軍事力を背景に開国や通商を迫っていましたので、まさに非常時です。

1858年には、アメリカ領事のハリスが日本との通商条約の締結を強く迫って来ていましたが、国内ではこの条約への対応で意見が割れており、幕府は困難な舵取りをしなければならない状況にありました。

当時の老中首座であった堀田正睦は京に赴きますが、朝廷から条約締結の許可を得るのに失敗してしまいます。

このため、自身に代わって越前藩主の松平慶永を大老に推薦し、この難局を切り抜けようとします。

慶永は、初めは斉昭らとともに攘夷を主張していましたが、やがて開国派に転じた、という経緯がありました。

このため、同じく開国派の正睦からすれば推薦しやすく、そのうえ、慶永は温厚で聡明な人物であったことから、大老にふさわしいとみなされたようです。

家定によって大老に指名される

しかしこの時に将軍の徳川家定は、「家柄や人柄を考慮すると、井伊直弼こそが大老にふわしい」と主張し、これによって急遽、直弼が大老に就任することになりました。

彦根藩主になった時と同じく、当人のあずかり知らぬところで地位の引き上げが行われ、家定の側近から説得を受け、直弼は大老への就任を受諾します。

家定は将軍と譜代大名が中心となって幕政を動かす旧来の体制こそが望ましいと考えており、このために直弼に白羽の矢が立ったのです。

しかし直弼は、実は専制的で独断的な政治家としての性格を隠し持っており、この措置によって、日本中に大きな嵐が吹き荒れることになります。

大老という並ぶ者のいない高い地位についたことが、そのような直弼の性格を引き出してしまった、ということなのかもしれません。

大老になった直弼はその権限を持って次の将軍を慶福(将軍になった際に家茂に改名)に定め、この争いに勝利しました。

【次のページに続く▼】

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